FC2ブログ
2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
第733回 2007/02/21(水)

《吉本ファシズム論より》:社会ファシズム(3)
(お休みです。)



今日の話題

<アジア的構造>という呪縛

 自民党の中川幹事長が「閣僚・官僚は総理に対し絶対的な忠誠、 自己犠牲の精神が求められている。……首相が入室したときに、 起立できない政治家、私語を慎まない政治家は、美しい国づくり 内閣にふさわしくない」などと発言したことがいろいろと取りざ たされている。

 この発言の効あってか、早速閣僚たちが起立して首相を迎えるように なったそうだ。昨日の新聞に、狆ゾウが起立している閣僚の間をふん ぞり返って歩いている写真が掲載されていた。思わず吹き出してしまっ た。

 思い出したことがある。
 まだ青年教員だった頃こと、歓送迎会の席である中年教員が「○○校 長に○年、△△校長に△年仕えていました。」と挨拶した。「校長に 仕える」などという意識は私には全くなかったので、私はまるで異星 人に出合ったかのようにびっくりしたし、吹き出すのをこらえるのに 苦労した。このお人、やがてリッパな校長に出世したようだ。

 中川幹事長の発言を批判している人たちのほとんどが北朝鮮の政治 体制を連想している。まさにこの二つの事例に共通しているのは意 識としての<アジア的構造>なのだ。近代的装いを凝らしたアジア 的デスポティズムを屋台骨とした大日本帝国は滅んでも、意識とし ての<アジア的構造>は容易には滅びない。この問題は私たちにも なお無縁ではない。

 滝村隆一さんの「アジア的国家と革命」から引用する。


 <アジア的構造>の最も本質的な特質は<個体> - つまり制度を 支える個体また制度のなかの個体 - がそれ自体として原理的に確 立していないこと、換言すれば<個体>が、したがってまた近代的な <家族>が生活的<現実的>にも思想的にも自立しえないところにあ る。

 これをさらに具体的な構造論のレヴェルで換言すれば、個別歴史レ ヴェルにおける<アジア的>な形式制度的構造の厳存は、一方におけ るワンマン的暴君ないし慈悲深い家父長君主たる<デスポット>の存 在と、他方における一般民衆の強烈な<共同体意識>が、何よりも <デスポット>を奉戴せざるをえない心情として存続していることに 象徴されるということになる。

 ここで翻って現在の「社会主義国」をみると、一方では<デスポッ ト>はいくらか形を変えて、つまり<毛沢東主席>や<金日成首相> という・人民と共に歩み人民に対して献身的な・<進歩的デスポット> として、相変らず人民の上に君臨している。他方では、アジア的人 民に特有の<共同体意識>が、強烈な<民族意識>として再生され ている。これを要するに「社会主義国」が建前上掲げている<制度 イデオロギー>としてのマルクス主義の<近代性>とは別に、そこ ではまぎれもなく<アジア的構造>が、脈々として波打っているの である。

 しかしこれは、われわれにとってたんに彼岸の問題たることを意 味しない。わが国をも含めて中途半端に<近代化>したアジアに特 有の進歩的知識人は、多かれ少なかれ、かかるアジア的構造を直視 することを避けて、アジアがもっともっと近代化すれば、必ずやア ジア的構造が必然化しているところの一切の<アジア的悲惨>など 一挙に解消・霧散してしまうといった無知からくる底ぬけの楽観を 抱いている。全く冗談ではない、とはこのことだ! いかに実質制 度的レヴェルで様々な要素が猿真似的に導入され、<近代化>され たところで、頑強な<アジア>は形式制度的レヴェルで残存し、や がてかかる制度的な二重性が新たな<アジア的構造>として転成し かねない。

 これはわが国の政治制度、すなわち<議会制>とか<官僚制>と かいう<近代的>な制度のなかで左右の政治的利権屋や官僚どもが、 それぞれ<小・デスポット>よろしく君臨する<ボス>を頂いて対 立・抗争・癒着し、どんな陣笠代議士でも自己の周囲では<ミニ・ ボス>然と振舞っていること一つをみても明らかなはずである。

 また社会制度的レヴェルでいえば、何も<アジア的宗教>の大衆 運動形態たる新興宗教を、ことさら引き合いに出すには及ばない。 むしろかつては<天皇制の廃止>という政治的スローガンを提出し た左翼的な政治運動家やその同伴的な学者・知識人たちが、自己の 組織(つまり一般党員に対して)や大学の研究室(つまり助手・院 生・学生に対して)、また家庭(つまり妻子に対して)でいかに 振舞っているかを正視すれば足りる。

 かくの如く頑強な<アジア>は、われわれ個々人の<内>にも しっかりと根を下しているのである。それ故、彼らが欧米流の <近代>を猿真似的に借用することによって、恰も一切の <アジア的悲惨>を一掃しうるかに夢想しているのは、<アジア 的構造>の頑強さ、とりわけ彼ら自身の<内>なるアジア的醜悪 さには一向に関心を示さない・アジアに特有の進歩的知識人の救 い難い偽善を暴露しているにすぎないことになる。

 われわれが採るべき道はただ一つ、<アジア的構造>を周到に 把握して、その根柢的止揚の道を理論的にまた思想的に追究する ことである。この場合<個体>原理確立の思想と運動が、アジア 的構造止揚の有力かつ有効な方策の一つであることは疑いえない。

 しかしアジア的構造の止揚は、何よりも制度的変革つまり <制度としてのイデオロギー>の変革の問題である。この意味で 私は、何よりもまず既成の「社会主義国」や日本社会を対象にし て、アジア的な形式制度構造と近代的ないし社会主義的な実質制 度的構造との複雑にからみ合った関連が、政治・経済・社会の全 レヴェルにおいて、理論的に追究・解明されねばならないと思う。
スポンサーサイト



 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/747-4133c34c
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック