《吉本ファシズム論より》:社会ファシズム(2)吉本さんは別の論文(「転向ファシストの詭弁」)で次のように 述べている。
丸山真男や竹内好をはじめ、日本の進歩的な学者は、日本ファシ ズムの思想や行動を研究するばあいに、例外なく農本主義的なファ シズムだけを問題にしている。わたしは、絶対主義天皇制下のファ シズムの形態を農本的なファシズムにだけもとめるのは、一面的な 理解にすぎないとおもう。
この農本的なファシズムは、厳密な意味では、ファシズムとはい いえないのであって、藤田省三のいうように、ある意味では変革の エネルギーが変態的に転化されたものと、いいえないことはない。 いわば、盲目的な無智であり、思想以前の問題にすぎない部分をも っている。
しかし、丸山学派などがとりあげてこなかった日本ファシズムの 他の形態、すなわち、ソレルやベルンシュタイン流の擬制社会主義 的な言辞をろうして独占ブルジョワジイに奉仕するファシズムこそ 問題としなければならないはずである。
農本ファシズムと社会ファシズムの違いをおさらいしておく。
農本ファシズムは1935(昭和10)年前後から敗戦まで、変革を求める 民衆の良質な部分の心情に深い浸透力をもったイデオロギーである。 それは反資本主義の立場をとりながらも、前近代的な伝統意識につなが り、国家権力の天皇制支配の側面に結びついていった。
一方社会ファシズムは、独占資本の戦時社会経済体制の内部矛盾 を、国家権力と一体化することによって打開しようとたもので、 危機に瀕した国家独占資本のイデオロギーにほかならない。
日本で社会ファシズム的な政治運動を推進し、これに附随するかた ちで文化組織を小規模ながらもつくり出したのは、中野正剛一派の東 方会(1936年設立)ファシズムと、そこに寄生した文化ファシズムで あった。
ここで言われている「文化ファシズム」とは東方会に参加して、 1940年に「文化再出発の会」(その機関紙が「文化組織」)を結 成した花田清輝、中野秀人、岡本潤らを指している。
最近で「文化ファシズム」と呼ぶにふさわしいものとしてすぐ思い 当たるものに「日本を守る国民会議」というのがあった。この団体は 1997年に「日本を守る会」と合体していまは「日本会議」となっている。 その役員の出所は、財界人、元官僚、政治家、学者、文化人、宗教家 などほとんどの分野にわたっている。組織力・経済力ともに巨大な 勢力となっている。もちろん、あの「新しい教科書をつくる会」 もその傘下の団体である。
(
戦争中、東方会ファシズム、文化ファシズムは、ブルジョワ・イデ オロギー的な必然と、天皇制の特殊な双面性によって支配的なカをも ちえなかった。そして主要な打撃をうけることなく戦争をくぐりぬけ ることができたのである。
そのため、この擬近代的ファシズムが、どんなもっともらしい思想 を流布し、デマゴギーを一般化したかは、なお、検討すべき余地をの こしている。
「天皇制の特殊な双面性」とはその「ブルジョワ地主的近代支配 と軍事的な封建支配」を指している。
わたしの知見のはんいでは、東方会のイデオロギーは、終始、 中野正剛が昭和8年にかいた『国家改造計画綱領』をでるもので はない。ここに日本における社会ファシズムの問題は、集中 してあらわれている。
この綱領は、軍部と民間の農本的なファシストたちによって企 てられた五・一五事件を直接の刺激として、満州事変以後の時代 的な転換を間接の契機としてかかれたものであった。いうまでも なく、当時、非合法的な形で流布されていた北一輝の<日本改造 法案>は、中野が原形として模倣したものである。
中野は北にたいして独自な綱領を対立的に提出しようと試みた ものにほかならぬ。もともと、党人くずれのブルジョワ・イデオ ローグにすぎない中野と、本来的な土着の思想家であった北とは、 比肩しうべくもないが、中野の綱領と北の法案のあいだには、ブ ルジョワ・イデオローグが民族的な国家機構を至上化した場合 と、日本型の社会主義者が民族的な封鎖性に足をとられていった 場合とのあきらかなちがいを指摘することができる。
以下、社会ファシズム(中野正剛)と農本ファシズム(北一輝)の 相違を論じている部分に重点を置いて読んでいくことにする。
今日の話題
高野岩三郎著「囚われたる民衆」(1)
(読みやすいように新たに段落を設けたり、段落間を行空けしました。)
囚われたる民衆
高野岩三郎
一
アメリカ連合軍司令部の眼には、わが国民はほとんど済度し難
い囚われた民衆であるように映ずると想像されるのであるが、私
自身の眼にもはなはだしく鳴滸がましい言い分であるが、また同
様に写るのである。それは何故!? この点に関してまずしばらく
私ども一家の経歴について言説するを許されたい。
ここで私どもというのは亡き兄高野房太郎と私との両人を指す
のである。約十年前私は、当時大阪市天王寺畔に在った大原社会
問題研究所内の講堂において「本邦最初の労働組合運動」と題し
て亡兄の労働組合運動について一場の講演を試みたことがあった
が、昨昭和20年12月、また大阪に毎日社の主催にかかる「毎日文
化講座」において私の少年時代の回顧を談じ、始めにおいて同様
の話をした。その速記はおそらく近日同社より公けにされるはず
であるから、詳細はそれについて承知されたい。
講演の趣旨は高野房太郎の組合運動たるや、労働組合の理論お
よび意義に共鳴しつつも、単に時世の波に便乗しいわば興味本位
に努力したものにあらずして、同人の社会的および個人的境遇よ
りして、自然発生的に没頭するに至ったものであるという点を解
明するにあったのである。
そもそも私ども両人は共に明治の初年長崎市に生まれた。兄は
明治元年、私は明治4年、市の中心銀星町の一町家に生を享けた。
元来長崎はいわゆる天領すなわち旧徳川幕府の直轄地である。し
たがって大村藩・佐賀藩というがごとき旧藩主その下に立つ藩士
の階級存在せず、いわば束縛なき一自由都市たる観があった。しか
もまた開港市であり、支那人、オランダ人、ポルトガル人、ロシア
人等の多数外人との交流繁き国際都市であった。それにまた私ども
の生まれ落ちた家族は職人階級に属していた。父は和服裁縫師、
母は米小売商人の娘であった。すなわち私どもは国際的自由都市の
職人仲間の町家の家庭に生まれたわけである。
しかるに父の長兄高野弥三郎なる者は、明治の初年郷里を出でて
横浜におもむき、当時岩崎弥太郎の創立した三菱汽船会社の傘下に
おける一回漕店を始めたのであるが、事実隆盛にして協力者を必要
とするに至りしかば、私ども家族を長崎より呼び寄せることとなっ
た。そこで私どもの両親は私ども両人に長姉を加わえ家族合わせ
て五人にて父祖以来長く住み馴れた郷里を後にして東京に上り、神
田区浅草橋畔、神田久右衛門町に落ち着き、万事叔父の世話を受け
て回漕店兼旅人宿の営業を営なむこととなった。私どもの小学校教
育は共に近くの千代田小学校に受けたのである。
かくて国際的自由都市の中心において町人の家に生まれた私ども
は、さらに東京の真中で下町ッ子として不規則極わまるしかも奔放
闊達なる教育のうちに育て上げられた次第であって、私どもの独立
自由・負けず嫌いの強きを挫き弱きを助けるという幡随院長兵衛的
気象はこの境遇環境の中よりおのずから養成されたものであろうと、
自認せざるを得ないわけである。
かくて私どもは比較的順境のうちに小児時代を経過したのである
が、好事魔多し、明治12年虚弱なりし父は齢39歳をもって死亡した。
しかし37歳の若さで未亡人となった母は健康無比かつ男勝りの婦人
であったので、叔父の援助の下に姉と二人して家業を継続せしが、
明治14年神田松枝町の大火災 − 一万二千軒を一嘗めした大火
災 − のために家は焼け蔵は落ち私ども親子四人は素裸の姿と
なって街頭に放り出されたのである。
しかるに叔父はあくまで私ども一家の面倒を見、類焼後間もなく
日本橋浪花町に家屋を建築して従来の旅人宿営業を継続せしめた。
兄は小学校八年の課程を修了して卒業後叔父の横浜の店におもむき
店員として従事したるが、明治18年この大黒柱たる叔父は急死した。
かつその前年長姉は良縁を得て遠く九州唐津在に嫁したれば、無資
産同様のわが家計を支え母と私の二人を扶養するの責は兄の肩上に
懸かることとなったので、兄は奮然志を立てて明治十九年北米サン
フラソシスコに渡り、微々たる日本品商店を開きしが、いくばくも
なく失敗に終わり、明治20年一旦帰朝しおもむろに再挙の策を講じ
ようとした。
しかるにその間私は僥倖にも第一高等中学校の試験に及第して同
年9月予科三級に入学するを得た。しかしこれは母の扶養に加えて
私の学資を支弁するの責を兄に負わしめることとなったのである。
ここにおいて兄は同年末再び米国に渡ったが、爾来十年間苦心惨憺、
米国の各地に転々してあらゆる労働に従事し、その得たる収入の一
部を割きて毎月私ども親子の家計費と私の学資とを貢いだのである。
これによって、私はその後一高五年の課程を終え、直ちに進んで東
京帝国大学法科大学政治科に入り、明治28年7月大学を卒業し得た
のであった。
これに反して兄は小学八年の科程を修めたるにすぎないのである
が、サンフランシスコにおいては商業学校に通学し、また経済学関
係の図書を少なからず購入して自修独学に怠らなかった。
かくて、私の大学卒業により兄の負担の一半は軽きを得るに至っ
たので、兄は米国の一小砲艦の乗組員として艦内の労務に従事しつ
つ欧米の各港を視察して、明治30年、十一年の遍歴の後帰朝したる
が、いくぱくもなく片山潜君と共に労働組合運動に身を投じ、後さ
らに消費組合の運動にも従事した。しかし前者は治安警察法の発布
によりその発展を阻まれ、後者は資金の欠乏により成績不振に陥り、
ついに兄は両運動より退ぞき、明治33年北清事件を機として支那に
渡航し、各地を転転し、ついには山東省青島に落ち延び、明治37年
同地において病死したのである。
以上高野房太郎の経歴の大要を語ったのであるが、その滞米の十
年間にわたる諸種の労働の体験と、当時米国における労働組合運動
− サミュエル・ゴムパースのひきゆるアメリカ労働総同盟Samuel G
ompers American Federation of Labor − の興隆に興味を感じか
つゴムパース氏自身とも相知るに至り、帰朝の年明治30年の夏
(1897年7月)同氏より日本における組合総組織者 authorized
and legally commissioned to act as General Organizer for Japan
たるの委嘱を受け、帰朝後いくぱくもなく組合運動に従事したるこ
とは前述のごとくである。
上来述べたるところによってもって、読者諸君は高野房太郎なる
人物が出来合の労働組合主義者にあらずして、反対にその生立ち境
遇等より自然発生的にこの運動におもむきたるものであることを容易
に了解されるであろう。かくして高野房太郎は熱烈なる組合主義者で
あったけれども、彼は協同者片山潜君と異なり、社会主義者ではな
い。単純なるゴムパース流の組合主義者であった。
(高野岩三郎に興味があって読み始めましたが、兄上の岩崎房太郎
も興味深い人ですね。)
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

