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第726回 2007/02/08(木)

《滝村国家論より》:国家社会主義(10)
北一輝・土着の革命思想(3)



 社会主義は、地理的に限定せられたる社会、即ち国家に主権の存す ることを主張する者なり。 - 即ち社会主義の法理学は国家主義 なり。

 社会主義 - 法理的に云へば国家主義は国家が目的にして利益 の帰属する権利の主体たりと云ふ思想にして主権は国家に在りと論 ずる者なり。


 これが当初からの北の<社会-即-国家>観であり、<国家主権>論 はこれを発展的に具体化していったものである。この北の国家観の問題 点を滝村さんは次のように指摘している。(滝村さんが強調文字や傍点を ふっている部分を赤字で表記する。)


 もとより「国家」と「社会」を実体的には同一物とみなし、 「国家」は「社会」の「法理」上の表現に他ならない、という北の 主張自体に誤りはない。だがこの際問題なのは、結論ではなくて、 それを論理的に導き出すに到る過程的把握にこそある。

 <政治的社会構成>と<共同体-即-国家>との統一としての <国家>とは、不断の<内的>および<外的>な関係性のなかの、 社会構成体における政治的諸関係の総体を、何よりも統一体として、 すなわち<法的共同体>として把握するとき成立する概念てあるか ら、<国家>をかかる意味あいにおいて<実体>的に把えることは 正当てある。換言すれば、厳密な科学としての国家 論において、<国家>をそういってよけれぽ<実体>視することが 許されるのは、<国家>という法的に統括された<社会>を、 <外的>および<内的>な関係性を内に含みつつも否定(すなわち 止揚)した<実体>として把握する場合たけである。

 しかるに北にあっては多くのプルジョア法学者と同様「社会」か ら独立した「法律上の人格」を有する「国家」が、「社会」の場合 と同じく、もっぱらスタティックな<実体>物としてしか把えられ ていない。それ故、「……吾人は……国家人格実在論の上に国家主 権を唱ふる者なり」という北自身の言葉は、彼の<社会-即-国家 >観における実体論的欠陥を、端的に証示したものということがて きる。


 つづめて言うと、国家は「不断の<内的>および<外的>な関係 性のなか」で構成されていく<法的共同体>つまり「幻想の共同体」 であり、「スタティックな<実体>物」というように単純化できる ものではない。

 次に滝村さんは、北独自の<天皇>観を概括するものとして、 <天皇-即-国家>という天皇制イデオロギーによる公認<国体 論>に対する北の熾烈な批判を引用している。

 日本の国体は君臣一家に非らずして堂々たる国家なり。天皇は 本家末家に非らずして国家の機関たる天皇なり。皇室費は末家に 対する本家の掠奪に非らずして国家に対する皇室の権利なり。 兵役は本家の利益の為めに未家の殺戮さるゝことに非らずして国 家に対する国民の義務なり。天皇が他の何者も比較すべからず重 大なる栄誉権を有し国民の平等なる要求を為すべからざるは国家 の利益の為めに国家の維持する制度にして、皇室の特権を無視す ることは国家の許容せざる所なり。即ち、大日本帝国は君臣一家 の妄想にあらずして実在の国家なり、天皇は国民と平等なる親籍 関係の本家に非らずして国家の利益の為めに国家に対して重大 なる特権を有する国家の一員なり。実に忠孝一致論を唱ふる者は 其の理由とする所の君臣一家論によりて国家に対する叛逆なりと すべし。


 公認<国体論>以外のいかなる天皇観も国家観も認めず、そこからの 逸脱を厳しく規制していた状況下で、公認<国体論>を「国家に対する 叛逆なり」と断罪して憚らない。なんとも大胆不敵な言説だ。思想の違 いを越えて、その強靭な精神に裏打ちされた思想家としての高邁な矜持に感服 する。後に、2・26事件に連座(実際には直接な関わりはなかったと言われて いる。)し、青年将校たちとともに銃殺に処されるが、そのときの態度も泰然自若としたものだったに違いない。 そのときの様子が彷彿として浮かんでくる。

 滝村さんはさらに「第四編 所謂国体論の復古的革命主義」の 劈頭の文章を引用している。


 政論家も是れ(つまり「国体論」のこと……滝村)あるが為めに 其の自由なる舌を縛せられて専政治下の奴隷農奴の如く、是れある が為めに新聞記者は醜怪極まる便侫阿諛の幇間的文字を羅列して恥 ぢず。是れあるが為めに大学教授より小学教師に至るまで凡ての 倫理学説と道徳論とを毀傷汚辱し、是れあるが為めに基督教も仏 教も各々堕落して偶像教となり以て交々他を国体に危険なりとして 誹謗し排撃す。

 斯くの如くなれば今日社会主義が学者と政府とよりして国体に 牴触すとして迫害さるゝは固より事の当然なるべしと雖も、只嘆 ずべきは社会主義者ともあらんものが此の羅馬法王の面前に立ちて 厳格なる答弁を為さゞることなり。少くも国体に牴触すと考ふる ならば公言の危きを避くるに沈黙の途あり、然るに弁を巧みにし て牴触せずと云ひ、甚しきは一致すと論じて逃るゝが如きは日本 に於てのみ見らるべき不面目なり。特に彼の国家社会主義を唱導 すと云ふ者の如きに至りては、却て此の『国体論』の上に社会主 義を築かんとするが如きの醜態、誠に以て社会主義の暗殺者なり とすべし。……『国体論』といふ脅迫の下に犬の如く匍匐して如何に土地資 本の公有を鳴号するも、斯る唯物的妄動のみにては社会主義は霊 魂の去れる腐屍骸骨なり。


 現在、ひたすら権力に媚を売る幇間的な学者・ジャーナリスト ・テレビタレントらが、この国のオピニオンリーダー顔して大手を 振ってのさばっている。その連中に聞かせたい言説だ。いま、公 認<国体論>のような暴虐な障碍はないにもかかわらず、彼らは 何に怯えているのだろうか。やっと手に入れた金ずるを失うまいと しているだけなのかもしれない。辺見庸さんの言い方を借りれば、 糞に群がる糞バエというところか。
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