FC2ブログ
2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。

451 「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(10)
オウム真理教事件について(4)
2006年3月13日(月)


 宗教教団はオウム真理教に対して「同じ宗教教団として寛容」であるべきだ、と吉本さんが言うのは、どの教団もオウム真理教が陥った陥穽から無縁ではないからだ。オウム真理教の轍を踏まないための思想的な営為が不可欠だと言っていると思う。その陥穽のありどころを吉本さんは次のように述べている。


 わたしはヨーガ行者としての麻原彰晃も、それを修得しようとして「出家」した信者も、マスコミやマスコミ登場の知識人士がいうほど幼稚な、しかも凶悪な人間たちだとはおもっていない。それにもかかわらずサリンを地下鉄に発生させて無辜の民衆を殺傷した容疑が、麻原彰晃やオウム真理教の信者と結びつく嫌疑の渦中にあるとすれば、生の世界と死後の世界を等価に存在する実体とみなす仏教的な世界観が、ラジカルな小思想家(宗教者)によって荷われた場合の「死」の軽視に由来するかもしれぬと、さしあたり言っておくほかない。平安末期から中世初頭の混乱した世相と支配者の交替の時期にも、そんなことがあった。中世の新宗教と教祖たちはそんな混乱の中で出発したのだ。そして「死」に突入したラジカルな小思想家(宗教者)は『一言芳談抄』に衝撃的なエピグラムをのこして消えた。



 吉本さんのこの観点は宗教者への批判にとどまらない。すべての思想的営為あるいは理念が同じ問題を問われている。その批判のある部分は私(たち)への批判でもある。
 天下国家を論じるだけが思想ではない。大状況のみならず、私たちの日常的な小状況にも適切に一貫した対処がきない思想など思想の名に値しない。国家の問題から市井の一人としての生き方にいたるまで、吉本思想は一貫している。次の引用文はそうした吉本思想の面目躍如たるところがある。傾聴に値すると思うので、長い引用をする。


 言うまでもないことだが、「国家」は市民社会との関係を緊密に持つことで、国法(憲法)を教義とする拡張された「宗教」だと見倣すことができるものだ。原則的にいえば宗教が宗教の上に立つことはできないという原理によって、宗教の自由、信教の自由が保障されなくてはならない。そしてこの自由は、どんな宗教を信ずるのも自由だというほかに、国家=政府からの宗教の自由を意味している。
 「国家」という「宗教」が、何はともあれ市民社会の上に立ちたい願望のあげくに一定の共同幻想(規範)を造りあげているように、どんな宗教も市民社会を超越したい欲求と、個々の市民の内面(こころのなか)に規範(戒律)をうち立てたい願望を持っているものだ。「国家」という「宗教」やそれ以外の宗教は、その超越的な部分で、市民社会の規範を超えた部分を必ず形成している。別の言い方をすれば、市民社会の善意の慣行に違反する可能性をいつでももっているものだ。

 たとえば市民社会の市民が、誰も生命を失いたいとも思わず、戦争をしたいともかんがえないのに、国法を介して市民を戦争に介入させ、生命を殺害させるような悪をなすことができる。もちろんそのためには村山内閣がやったように自衛隊は合憲であると宣明して、海外派遣を正当化し、犠牲の死者を出しても、新開、テレビなどの報道を通じて政府による殺人だと言わないような言論の下ごしらえをして、善良な市民のマインド・コントロールを巧みに済ましてしまうことになっている。
 また市民社会の日常では、母親が幼ない自分の子どもを殺害して愛人の男とかけ落ちしたり、父親が登校拒否の子どもや家庭内暴力の子どもを虐待したり、殺害したり、またその逆に登校拒否児や家庭内暴力の子どもが、父親や母親に傷害を与えたり、殺害したりすることも茶飯事のように行われている。



 吉本さんはヨーガ行者としての麻原彰晃を高く評価している。この点でもろもろの宗教家・知識人・一般の新聞投書者たちから激しいバッシングを受けた。次はそれらに対する吉本さんの応答である。


 わたしは市民主義にたいし終始批判的だが、市民一般に批判的であったことはない。新聞に投書などする人たちはどんな人たちか測り難いが、たぶん、市民から市民主義に移行する過程にある人のように受けとめている。だから市民主義に移行している部分の理念にだけ批判的にならざるをえないが、きみたちの仲良くしていて立派な市民だと思っている隣人や隣人の子が、家庭内暴力を苦にして子どもを殺害したり、逆に親が子どもから殺されてしまったとする。そうなったとき、きみたちはその隣人を手の平を返すように殺人者呼ばわりし、その家族にたいし隣に住んでもらいたくない、出てゆけとデモでもするのだろうか。わたしならそんな馬鹿な振舞いはできない。あの隣人もその子どももいい人だったが、そこまで追い詰められてしまった。気の毒だと言うとおもう。なぜかといえば、善なる人が情況によって悪を犯すこともあれば、他人や近親を殺害することも、ありうるからだ。わたしの人間認識ではこの可能性は人間性(ヒューマニティ)のなかに包括されるもので、例外などあり得ないとおもう。
オウム真理教の教祖の宗教家としての力量を評価するということは、仲良くしていた隣人が家庭内暴力の息子を殺しでも、あの人はいい立派な人だったというのとおなじだ。これを殺人者だとして排斥すれば済むなどという考えは、検事や裁判官が法を適用する場合以外には通用しないとわたしなら考える。このことに気づかない阿呆は、マス・コミのふりまく市民主義の宣伝にかぶれた市民だけだとわたしはおもっている。もちろん新聞やテレビなどマス・コミ関係者やそこに登場する知識人士のオウム―サリン事件にたいするいけしゃあしゃあとした論議をきいていると心の底からだめな人たちだという気がする。

 何となれば国家=政府の存在と遣り方を絶対善として疑わず、いわばその傘の下で、じぶんたちがオウム真理教の連中と別人種のような顔をしているからだ。理念的にいえば国家=政府という首部から決められた秩序を至上の宗教としている箸にも棒にもかからない連中だとしか思えない。そして文学的にいえば人間性(ヒューマニティ)の闇を見ることができない盲目の人士にすぎないというほかない。



 隣人が犯してしまった殺傷事件に対して、私たちはどうふるまうだろうか。「きみたちはその隣人を手の平を返すように殺人者呼ばわりし、その家族にたいし隣に住んでもらいたくない、出てゆけとデモでもするのだろうか。わたしならそんな馬鹿な振舞いはできない。」と吉本さんは言う。「正義の原理」による判断もきっとそのようになるのではないか。ここで私は麻原彰晃の子女の入学拒否事件をもう一度思い出す。

 先週からNHKで始まった「繋がれた明日」(土曜午後10:15)というドラマを見ている。誤って殺人を犯した青年が仮釈放で社会に復帰しようとするが、周囲のさまざまな偏見と悪意にそれを阻まれる。この国の市民あるいは市民社会の未熟さに激しい憤りとやりきれなさを感じながらみている。その未熟さは私自身の中にもある。激しい憤りとやりきれなさは私自身への憤りとやりきれなさでもある。

スポンサーサイト



 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック