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第725回 2007/02/07(水)

《滝村国家論より》:国家社会主義(9)
北一輝・土着の革命思想(2)


 北の天皇機関説は憲法論のレヴェルではどのように捉えること ができるか。
 それは<統治権>の主体を「天皇」や「国民」を一分子とする 「国家」それ自体にあるとする<国家主権>論であり、天皇制イ デオロギーの憲法表出としての<天皇主権>論と真向うから対立 する。<統治権>の主体があくまで「国家」そのものにあること を、自己の方法的立場である社会有機体論によって明快に説明し ている。


……吾人は斯る根拠なき紛々たる国家主権論者を排して国家人格実 在論の上に国家主権を唱ふる者なり。

 吾人は社会主義によりて下の如く主張す - 国家の分子たる天 皇と国民とに国家の権利たる統治権が存するに非らず。分子の消滅 と共に更新する所の者は政権者にして統治権の主体にあらず。国家 の分子たる天皇が統治権の行使によりて得べき利益の帰属する主体 にあらず、又国民が国民を終局目的として統治権を行使する権利の 主体にあらず。近代国家に於ては国家の生存進化の目的と其れに応 ずる利益の帰属すべき権利の主体たることを認め、最高機関を特権 ある一分子或は平等の多くの分子或は特権ある一分子と平等の多く の分子とによりて組織し、其機関が権利の主体たらずして国家の目 的と利益との為めに国家の統治権を行使するなり。而して国家と云 ふ歴史的継続を有する人類社会は法理上消滅する者にあらず。分子 は更新すと雖も国家其者は更新する者にあらず。即ち国家が統治権 の主体たり。


 このような<国家主権>論の立場から、「近代の公民国家」に おける「君主及び国民」と「国家」との「権利義務」関係は、 まず一般論として、次のように論じられている。


……近代の公民国家に於ては如何なる君主専制国と雖も又直接立法 を有するほどの民主国と雖も、其の君主及び国民は決して主権の本 体に非らず、主権の本体は国家にして国家の独立自存の目的の為め に国家の主権を或は君主或は国民が行使するなり。従て君主及び国 民の権利義務は階級国家(近代以前とりわけ「中世の」……滝村) に於けるが如く直接の契約的対立にあらずして国家に対する権利 義務なり。

 果して然らば権利義務の帰属する主体として国家が法律上の人格 なることは当然の帰納なるべく、此の人格の生存進化の目的の為め に君主と国民とが国家の機関たることは亦当然の論理的演繹なり。

……中世の契約説時代の憲法は、君主と貴族、或は国民との条約的 性質を有したるも、今日の憲法は決して契約に非ずして君主と国民 とは憲法の訂結を以て権利義務の関係に於て相対立する二個の階級 にあらず。君主の行動の制限さるゝは国民の権利の前に自家を抑制 せざるべからざる義務の為めにあらずして、国民の義務を負担せし めらるゝは君主の要求の下に君主の権利を充さんが為めにあらず。 即ち、国民の負担する義務は国家の要求する権利にして君主の主張 する権利は国家の負担する義務なり。


 次に北は、上記のような近代の「君主及び国民」と「国家」 との「権利義務」関係一般を、「日本天皇と日本国民」と「大日本 帝国」との「権利義務」関係の問題に、そのまま適用する。


 日本国民と日本天皇とは権利義務の条約を以て対立する二つの階級 にあらず、其の権利義務は此の二つの階級が其の条約によりて直接に 負担し要求し得る権利義務に非らず。約言すれば日本天皇と日本国民 との有する権利義務は各自直接に対立する権利義務にあらずして大日 本帝国に対する権利義務なり。

 例せば日本国民が天皇の政権を無視す可からざる義務あるは天皇の 直接に国民に要求し得べき権利にあらずして、要求の権利は国家が有 し国民は国家の前に義務を負ふなり。

 日本天皇が議会の意志を外にして法律命令を発する能はざる義務あ るは国民の直接に要求し得べき権利あるが為めにあらず、要求の権利 ある者は国家にして天皇は国家より義務を負ふなり。

 今日の天皇は国家を所有して国家の外に立つ天皇に非ず、美濃部 博士が広義の国民中に包含せるが如く、日本国と云ふ有機体の空間 を隔てたる分子の人類として、即ち日本帝国の一員として特権を有 する政権者と云ふ意味の天皇なり。此の特権ある一分子と他の分子 とは決して契約的対立に非ず、故に他の凡ての権利義務が直接に要 求し負担する者に非ざる如く、信仰の自由につきて臣民の義務に 背かざる限りに於てはと云ふ前置きの義務も、決して国家の分子が 他の等しき分子たる特権者に対して負へるに非らす。即ち臣民たる 義務に背かざる限りに於てはと云ふことは、国家に対する義務の一 たる兵役を拒絶するクエーカー宗の如き宗教の除外を示す者なり。


 この北の国家論は、憲法を国家が国民に与える規制と考え、しかも 象徴天皇制を前提とする昨今の改憲論者にとって、相当に有効な理論 的武器を提供するのではないか。さらに、自然成長的通俗的な国家論 に捉われている一般民衆に対しても、今日でも相当な説得力を持って いると思われる。

 滝村さんは、この北の理論について、次のように学問的な危惧を 述べている。

『右の如く実体的には「天皇」と「国民」によって構成される 「国家」が「権利義務の帰属する主体として」「天皇」および 「国民」つまりは「社会」から独立した「法律上の人格」を有す る、という<国家主権>論を主張することは、北が原理的=方法 的に一貫して把持しているはずの<社会-即-国家>観における 実体論的一面性を実質的には補正・克服してしるのてはないかとし て、それを高く評価する者がでてくるかもしれない。』

 そして、それゆえに『簡単にても評註を加えておく必 要があろう』と論を進めている。次回はその北国家論に対する 滝村批判を検討する。


今日の話題

「凡庸な悪」について(1)

 大澤真幸(社会学者)さんの論壇時評(1月31日付東京新聞夕刊)に、 日ごろ考えていたことと共鳴する一節があった。まず、書き出しの 一文。


 現在の国際政治における困難を、あえて宗教的な語を用いて要約す るならば、「最後の審判の視点の不在」となろう。「私の今の言動が 正しいかどうかはわからない。しかし、歴史の最後の日の神の裁きが、 それが正義にかなっていたか否かを教えてくれるに違いない」。これ が、最後の審判という想定である。

 だが、われわれが今日失っているのは、この感覚つまり仮に目下の ところははっきりしていなくても、われわれの行為の規範的な価値 を正しく評価してくれる公正な視点がどこかにあるはずだという感 覚である。「正義」を呼ぶ声が論壇の世界に響くのは、「最後の審 判」を失ったことへの不安の表現にも思える。


 この問いかけは、もちろん、「現在の国際政治における困難」にとどまらない。一般的な 倫理の問題として今日的問題であり、私はそのように読んだ。そのように 読んできて、次の最後の結語に強く共鳴した。


 しかし、これは、倫理にとってほんとうに不利な状況なのだろう か。神の不在や正義の内容の不確定は倫理の崩壊を意味している と、普通は考えられている。ドストエフスキーが述べたように (「もし神がいないのであれば、すべてが許されてしまう」)。 しかし、精神分析学者ラカンは、この同じ条件が究極の倫理的な 価値をももちうると示唆している。このことは、義務の履行が 「言い訳」として機能する場合があることを考えると理解できる。

 普通、人は、義務を遂行できないときに言い訳をするが、逆に、 義務の遂行そのものが言い訳になる場合もある。アレントが 「凡庸な悪」と呼んだアイヒマンのケースがそうだ。アイヒマンは、 職位上の義務だったから、つまり命令があったからユダヤ人虐殺を 指揮しただけだ、と主張した。多くの日本兵も、同じ理由で虐殺を 行ったことだろう。

 このように、「正義」や「義務」を与える超越的な他者(神、指 導者等)がいるとき、人は、責任をその他者に転嫁できる。

 だが、もしそのような他者がいなければ、人は、自らの行為の責任 を自らで全面的に引き受けなくてはならない。そうだとすれば、 「最後の審判の視点」を失ったわれわれの時代は、倫理を根底から 復活させるためのチャンスを有するのではないか。


 「凡庸な悪」は戦時のような極限でだけ生まれるわけではない。

 私はここで、学校現場で「日の丸・君が代の強制」を直接指揮して いる学校長(特に都立高校の)に思いを馳せる。彼らが上意下達をし ているのは「日の丸・君が代の強制」だけではない。教育の自由を 圧殺し学校教育の全てを支配しようとして都教委だが次々と押し付け てくるあらゆる施策を、彼等はそのまま上意下達している。あるいは もしかして、都教委からの命令にいくらかは抵抗したり、それの骨抜 きを試みたりしている校長もいるのかもしれないが、私の耳目には 入ってこない。少なくとも降格を賭けるほどの校長は皆無だろう。もっとも 現在ではその程度の権力迎合教員しか校長になろうとはしない。
 当然といおうか、気の毒といおうか、ときに彼らはアイヒマンとか ロボットとか罵倒されている。

 「凡庸な悪」は都教委と一般教員との板ばさみになっている校長に だけにあるわけでもない。校長が下達する不条理に抵抗できない教員 もそれを共有している。

 「凡庸な悪」には、悪辣な都の教育行政に圧迫されている教員だけ が直面しているわけでもない。

 「職位上の義務」だけでなく「一般的な義務」にまで「義務」を 敷衍したとき、義務の履行を「言い訳」とする「凡庸な悪」は私 (たち)も日常的に共有している「悪」ではないか。私は自らの人 生を省みて内心忸怩たる思いを禁じえない。
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