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第722回 2007/02/04(日)

《滝村国家論より》:国家社会主義(6)
大日本帝国を解剖する(1)


 大日本帝国下のファシズムはどのようなものだったのか。 農本ファシズムと社会ファシズムの代表的な思想として、それぞれ 北一輝と中野正剛を取り上げてみよう。

 言うまでもなく、どの思想家の思想形成もその時代的な制約の中 で営まれ、それゆえの限界をもつ。常にそのことに留意しながら扱 うことが肝要だ。ということで、まず大日本帝国とはどのような国 家だったのか。

 この問題については
第692回 12月27日:唯物史観と国家論の方法(14)伝統的政治観念の復古的再生(2)
で、次のように書いておいた。

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 さて、上述のような「唯物史観の方法的見地」は、「明治維新」 以後の「天皇制」の問題を解明する上でも必須の方法的理論的見地 であるだろう。「近代天皇制国家」を、滝村さんはおおよそ次のよう に把握している。


 (「天皇制と国家の理論」を構成するにあたっての)理論的主眼は、 近代天皇制国家を、アジア的デスポティズムとしての古代天皇制の 統治形態と国教が、近代社会的発展にもとづくより根本的かつ直接 的な要請に対応した、近代国家的活動(とくに社会・経済政策の 遂行)の一貫した組織的遂行を可能とすべく新たな合理的形態で 復古された、近代的デスポティズムとして把握する点にある。従って 帝国憲法は、復古されたアジア的統治形態理念としての天皇制イデ オロギーの根本精神から、主にプロシャ流近代立憲的専制国家と その制度的理念を、可能な限り大々的に採用したものであると把握 していた。

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 これを詳しく論じたものとして、「北一輝・吉野作造と近代天皇 制国家」という論稿を読んでみる。

 フランス第二帝政(ボナパルティズム)は国家権力(第三権力) が経済的支配階級をも自己の支配下に屈服させたという意味で 近代的国民国家としては<例外的国家>だった。(次の記事を 参照してください。)

第693回 12月28日:唯物史観と国家論の方法(15)「ブリュメール十八日」(1)

第694回 12月29日:唯物史観と国家論の方法(16)「ブリュメール十八日」(2)

第695回 12月30日:唯物史観と国家論の方法(17)ヨーロッパ革命の本質


 そのような意味で、明治維新によって生まれた大日本帝国は <例外的>事例である。すなわち、第二帝政の「ボナパルティズ ム」に該当する統治形態として、アジア的統治形態である「デス ポティズム」に近代的装いを施した「近代的デスポティズム」を 統治形態の理念とした。

しかし、この天皇制国家の近代的デスポティズムの特質は、天皇親 裁を建前としていたにもかかわらず、実質的には名目的デスポティ ズムとして構成される他なかった点にある。

 天皇制国家が名目的デスポティズムとして構成されざるを得な かった根因は、明治維新を牽引した倒幕勢力が伝統的な宗教的 権威としての天皇を、もっぱら徳川幕藩体制に対する大義名分 として奉戴したという点に求められる。太政官政府の樹立以降の 経済社会の急速な近代的発展により、近代的国家活動に対応すべ き政治制度の創出が必須となったとき、デスポティズムの政治 的復古が必然的であった。しかし、その天皇制国家として創出さ れた国家における重要政務の実質的決定権(第三権力)は西南 雄藩出身の元老・重臣層によって掌握されていた。 元老・重臣層は、主に宮中・府中また枢密院に根拠をおきつつ、 ときには自ら内閣首脳をも務めながら、名目的デスポティズム故に生じ る諸分属機関間の利害や要求の対立・抗争を調整・仲裁・抑止に 一致協力して努め、天皇制国家としての一元的統一の分解を防禦して いった。

 次回は、この経緯を、<社会・経済的>観点と<政治的・イデオ ロギー的>観点との2点から、少し具体的に検討する。
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