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第719回 2007/01/30(火)

《滝村国家論より》:国家社会主義(3)
マルクス主義による国家社会主義批判


 滝村論文(実は講演録)に戻る。

 この論文は発表されたのは 1972年で冷戦真っ只中の頃です。その頃の思想状況や政治状況からくる 制約を考慮したうえで読んでいきたい。現在からは一見切実でなと思 われる論点でも、本質論的には的は外れていないと思う。例えば 「マルクス主義」は一般には既に過去のものとされているようだが、 しぶとく生き残っていたり別の顔をもって再生したりするするだろ う。それは何も「マルクス主義」に限らない。今回のテーマの「国家 社会主義」や「ファシズム」もそうだ。だからこそいまさらながらに 取り上げる意味がある。いま思想的にも政治的にも日本を席巻して いる反動の嵐はファシズムだろうか。ファシズムとしたら、それは 戦前戦中のファシズムの再生なのかあるいは新種なのか。それを 見定めるための一つの手がかりを得られればと思っている。

 上で「マルクス主義」とかっこをつけて表記したのは、滝村さんが 『伝統的な〝マルクス主義″いわゆる〝マルクス主義″』と限定して いるのを受けてのことです。三浦つとむさんの言い方では「官許マル クス主義」ということになる。

 まず「マルクス主義」の国家論がどういうものであったかを確認し ておくと、それは、国家とは経済的に支配する階級が被支配階級を 弾圧・抑圧するための暴力装置である、というものだった。つまり 国家はもっぱら<共同体―内―国家>という<狭義の国家>であり、 しかも<政治的国家>という面だけからとらえられている。 さらにまた、その<政治的国家>には幻想(イデオロギー)論が 抜け落ちている。

 従ってマルクス主義によっては<共同体-内-国家>社会主義と <共同体-即-国家>社会主義の区別はなし得ないし、その国家 社会主義の批判は、<共同体―内―国家>社会主義に対してはある 程度有効であっても、<共同体―即―国家>社会主義に対しては全 くの見当はずれなものとならざるを得ない。


 最良の〝正統マルクス主義″のレヴェルを考えた場合に、論理的 に予想しうる批判は、こういうことではないのか。

 端的にいえば、<共同体-内-国家>死滅論というのを自分たち はもっている。そこのところで一つの優位ということをひきたたせ ることができるのではないのかということです。つまり<共同体- 内-国家>社会主義というやつは、いわゆる「暴力装置」としての 「国家」というものを、社会にとって絶対に不可欠のものとして永 遠化する、それどころかそれを集中強大化して、軍事的な「独裁」 体制というものを主張するけれども、これにひきかえて、マルクス 主義の方では、過渡期においてブルジョアジーに対するプロレタリ アートの独裁というふうなものを敢行するけれども、この「国家」 はプロレタリアート自身の武装を主体としているから、階級として のブルジョアジーの一掃後当然死滅する、つまりマルクス主義では、 「国家」という「弾圧装置」を死滅させることができるわけであ る。そしてそこにこそマルクス主義のえらさがある、そういう意味 での批判というのはある程度可能です。だから公平にみて、そこの ところに一分の利があるといえないことはない。

 けれども、最良の<共同体-即-国家>社会主義に対しては、全く お手上げである。その理由は、最良の<共同体-即-国家>社会主義 は、言葉として<共同体-内-国家>の<消滅>とはいいませんけれ ども、<無力化>というか、<無化>というか、それは一応考えてい るわけです。つまり単なる公的事務にたずさわる、共通利害を処理す る「苦情処理機関」みたいな、そういう意味での「国民の指導機関」 にしちゃうという点では、殆んど同じことを考えているわけです。 最良の<共同体-即-国家>社会主義というのは、内部的な国家機関 というものの<無力化>というふうなことについては、いわゆる〝マ ルクス主義者″と同じ程度、あるいはそれ以上に考えているわけで す。

 ただ彼らは<共同体-即-国家>、つまり<国家としての民族>だ けは、これは歴史的にいっても根源が古いし、これはもう唯一の根拠 にせざるを得ないんだ、つまりこのレヴェルだけでもって国家主義と いうものをとらえているわけであって、内部的な「国家」に対するか なり活発な国民的な参加であるとか、あるいは「指導機関化」である とか、あるいは「弾圧装置」としての「国家」の解除であるとか、 そういうことは完全に言うわけです。あとから具体的に話すことに なるかも知れませんが、権藤成卿だとか、北一輝なんていう人は、 そのくらいのことはとっくに考えているわけです。

 ただ「国民」というものは、そのまま「国家」である、このこと は<戦争>のための<徴兵制>などを考えれば明瞭なはずであって、 そういう意味での<国民-即-国家>、あるいは<社会-即-国家> 主義は断固として唱えますが、内部的な意味での「弾圧機関」なん ていうものは、これはむしろ徹底的に<無化>しちゃうんだという ような発想は、最良の<国家社会主義>者にはあるんだということ は、知っておかなければならない。

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