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第716回 2007/01/26(金)

『柄谷行人著「世界共和国へ」を読む』(31)
「人間の叡知」を信じたい。


   いよいよこのシリーズの最終回です。結びの一節を読みます。


 カントがいう「自然の隠微な計画」はけっして美しいものではありません。 それは人間の善意によってよりも、むしろ悪意や攻撃性を通して実現される からです。その意味で、われわれはどんな悲惨な状態にあっても、絶望する 必要はないということになります。

 しかし、たとえ窮極的に「自然の狡知」が働くとしても、われわれはこのまま 座視してよいわけではない。人類にとって致命的なカタストロフがおこる 前に、われわれはカント自身がそうしたように、実現可能なところから始めるは かないのです。
 

 カントは「反社会的社会性」という人間(国家)の本性を変えることはできな いという前提に立っている。しかし、それは人間の本性の半分でしかない。人間は もっと複雑なドウツブだ。人間が「反社会的社会性」とは正反対の本性をももつこ とは、人間のありようをチョッと振り返れば明らかではないか。人類の歴史は略奪 と殺戮の連続であったと同時に、相互扶助(互酬)によってドウツブから「人間」 となってきた歴史でもあった。「理性の狡知」でもなく「自然の狡知」でもない 「人間の叡知」の創出という道があることを私は疑わない。


 人類はいま、緊急に解決せねばならない課題に直面しています。それは次の三つに集約でき ます。
  1 戦争
  2 環境破壊
  3 経済的格差
 これらは切り離せない問題です。ここに、人間と自然との関係、人間と人間の関係が 集約されているからです。そして、これらは国家と資本の問題に帰着します。国家と 資本を統御しないならば、われわれはこのまま、破局への道をたどるほかありません。

 これらは、一国単位では考えることができない問題です。実際、そのために、グローバ ルな非国家組織やネットワークが数多く作り出されています。しかし、それが有効に機能 しないのは、結局は、諸国家の妨害に出会うからです。資本に対抗する各国の運動は、 つねに国家によって分断されてしまいます。
   ここで問題にすべき国家は<共同体―内―国家>だと思う。「資本に対抗する各国の 運動は、つねに国家によって分断され」る以前に、資本に対抗する一国家内での運動が 圧殺されている。国民国家が資本主義生産様式を下部構造とする限り当然の結果である。 戦争も環境破壊も経済格差も、資本主義生産様式が生み出す弊害だ。

 柄谷さんは「国家と資本を統御」すると言う。「国家と資本を棄揚」するとは言わない。 「国家の棄揚」は不可能と断じているからだ。しはし、国民国家も資本主義も普遍的なもの でもないし、最終到達点でもない。事実、資本主義は「消費資本主義」とか「高度資本主義」 とか呼ばれ、国民国家創成期のものとは相当に違ってきている。当然国家システムも変わらざるを 得ないだろう。吉本さんが言う「国家を開く」ということも含めて、国家の棄揚は決して不 可能ではない。このとき、私たちが出発点として依拠すべき思想的遺産は、ヘーゲルでも カントでもなく、やはりマルクスだろう。


 一定の様式で生産的に活動している一定の個人たちは、これら一定の社会的および 政治的関係をとり結ぶ。経験的な観察は、それぞれ個々の場合において社会的および 政治的編成と生産とのつながりを、経験的に、そして少しの神秘化や思弁もまじえず に呈示しなければならない。社会的編成と国家は絶えず一定の個人たちの生活過程 から生れる。(「ドイツ・イデオロギー」より)

 たとえその形態がどのようなものであろうと、社会とは何でしょうか? 人間の相互 的行為の産物です。人間は社会形態をあれこれと任意に選ぶことができるでしょうか? できはしません。もし人間の生産諸カの特定の発展の度合を前提するならば、交通や 消費の特定の形態が得られるでしょう。もし生産、交通及び消費の特定の発展段階を 前提するならば、それに応じた社会秩序が、また家族、身分あるいは階級のそれに応じ た組織が、一言でいえばそれに応じた社会が得られるでしょう。このような社会を前提 するならば、社会の公的表現にすぎないそれ相応の政治秩序が得られるでしょう。 (「アンネンコフあて書簡」より)



 では、どのように国家に対抗すればよいのでしょうか。その内部から否定していくだけ では、国家を揚棄することはできない。国家は他の国家に対して存在するからです。われ われに可能なのは、各国で軍事的主権を徐々に国際連合に譲渡するように働きかけ、それ によって国際連合を強化・再編成するということです。たとえば、日本の憲法第九条にお ける戦争放棄とは、軍事的主権を国際連合に譲渡するものです。各国でこのように主権の 放棄がなされる以外に、諸国家を揚棄する方法はありません。
   ここでの国家は<共同体―即―国家>である。では国家が主権を放棄するとはどういう ことか。それは「国家意志」として押し出されるわけだが、それでは「国家意志」はどの ようにして形成されるのだろうか。『「国家意志」とは何か』 でみたように、ブルジョア民主主義のもとで「軍事的主権」を放棄するという国家意志を形成することは、これこそ 不可能事だろう。ここでもやはり話は逆で、「国軍を持たない」という国家の開き方も 含めて、国家の支配システムの変更あるいは国家の棄揚が先行しなければならない。 コスタリカが国軍を放棄しえたのは、<共同体―内―国家>がブルジョア国民国家を超え たからにほかならない。


 各国における「下から」の運動は、諸国家を「上から」封じこめることによってのみ、 分断をまぬかれます。「下から」と「上から」の運動の連係によって、新たな交換様式 にもとづくグローバル・コミュニティ(アソシエーション)が徐々に実現される。もち ろん、その実現は容易ではないが、けっして純望的ではありません。少なくとも、その 道筋だけははっきりしているからです。
 

 「世界共和国へ」のはじめてすぐ、これは精読すべきだろうと思い、ホームページの テーマに選んだ。「資本=ネーション=国家」という環を「商品交換=互酬=収奪」と いう交換様式からとらえて、その環を抜け出るための第四の交換様式Xを探求すると いうテーマがとても新鮮に思え、今までにない新しい構想が提出されるのではないか と期待したからだった。期待が大きかった分、肩透かしをされた感じで、ちょっと 拍子抜けしている。しかし、柄谷さんが示す道筋には多くの疑問を呈したが、交換 様式Xには大きな共感を持っている。
 「新たな交換様式」Xを、柄谷さんは「アソシエーショニズム」と言っている。改めて 確認しておこう。


 社会主義にはさまざまなタイプがあります。人々が知っている社会主義は、おお むね国家社会主義というべきものです。コミュニズムに関しても同じです。この ような言葉を使っているかぎり、私のいいたいことは伝わりません。だから、誤 解を避けるために、私はアソシエーショニズムという言葉を使っています。

 アソシエーショニズムは、商品交換の原理が存在するような都市的空間で、国家や 共同体の拘束を斥けるとともに、共同体にあった互酬性を高次元で取りかえそうとす る運動です。それは先にのべたように、自由の互酬性(相互性)を実現することです。


 さて、「世界共和国へ」にはいささか不満がありましたが、ときどき横道に入っていろいろ 勉強できました。入ろうとして入らなかった横道もありました。そのほとんどは「滝村国 家論」に関わることです。その残してきた横道を本道にして、次回からのテーマとします。 まずは上の引用文にある「国家社会主義」を取り上げます。
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