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450 「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(9)
オウム真理教事件について(3)
2006年3月12日(日)


 一般論として、宗教(普遍化して理念と言ってもよい)についての吉本さんの見解は次のようである。


 宗教はすべて迷妄だといいたいところがわたしにはあるが、じつは迷妄な個所は、理念(イデオロギー)としてあらわれている。また理念は政治的であれ社会的であれ迷妄だといいたいところだが、理念の迷妄は個人としても集団としても宗教性としてもあらわれている。これが世界の現在の思想的本質であるかぎり、わたしたちは宗教の存在も理念の存在も認めるほかないとおもう。
(「サンサーラ」1995年11月号「情況との対話」より)



 宗教は迷妄だと否定してまったく問題外とすることもできるが、現在の人類の思想的到達点においては宗教も、その他の政治的・社会的・倫理的理念などとともに、思想上の問題としてその存在を認めるほかないと言っている。
 なお吉本さんは「理念」に「イデオロギー」というルビを振っている。私は「虚偽意識」という語を「イデオロギー」というルビを振って用いている。つまり理念の「迷妄」な部分を私は「虚偽意識」と言ってきた。

 この宗教と理念のアポリアが現段階での最大の思想的課題だということになる。浅間山荘事件を頂点とする「連合赤軍」一連の事件の問題もここで取り上げようとしている問題と別物ではない。上の引用文と同じことを次のようにも言っている。


 宗教のなかの迷妄的な部分が理念的になってしまうのと同じように、理念的であるはずの思想は必ずその迷妄的な部分が宗教的になってしまいます。反核を大声でいいたてている文士も同じです。
 僕は本質的にいえば宗教も理念も両方とも否定したいと思っていますが、現在のところ世界中の宗教や社会の理念はこのことから免れていません。免れているやつは世界中にだれもいないんです。
 そういう段階だということを認めた上でいいますが、入り方と出方がきちっとしてない集団は、理念としても宗教としても成り立たないと思います。集団として宗教や政治をやるなら、そのことをきちっとしておかないと、迷妄な部分がひっかかってきて、ヤクザの組と同じように入るときは盃ごと、出るときは指を詰めろとか生かしておけない、リンチだということになります。実際、オウムも世界の左翼の連中もそれらしきことをやってきたわけです。それを免れることができないのが、現在の世界の段階だというより仕方ないんです。
(「世紀末ニュースを解読する」より)



 このアポリアをだれもが免れていないという認識が、たぶん吉本さんとその他の論者との間の、論点の大きな齟齬となっている。このような認識を欠いたものには、結局は連合赤軍事件やオウム真理教事件の本質は見えないし、その言説も対処も皮相で通俗的なものにならざるを得ない。


 宗教団体、特に仏教各派がなにをいっているかというと、オウム真理教は凶悪、劣悪な集団であって、とても宗教と呼べるようなものではない、これは特別であり、宗教団体自体は悪くないのだから、宗教法人法の改定には反対であるという言い方です。ただ一つの宗派も、宗教がまっ正直に、まっすぐに突っ走れば、そこには危険な要素があり得るんだ、法的には犯罪にいく可能性だってんあるんだ、同じ宗教教団として寛容でありたいという言い方をした団体はひとつもありません。どこもオウムのようにきついところまで追いつめられたことはないのですが、その宗教教義は自分たちとは無縁であると片付けています。
 これは僕にいわせれば、宗教家として失格であると思います。特に仏教徒として失格です。アイツは特別に悪いんで、俺のところとは違うんだという言い方は宗教家としては全然なっていないと思います。



 この引用文で言われていることは「正義の原理」を貫いている論理とほとんど同じだと私は思う。「正義の原理」によれば「同じ宗教教団として寛容でありたい」という姿勢が最も妥当なものということになるだろう。

 マスコミを賑わしたいわゆる識者たちの言説もすべて、上の宗教者たちの域をでるものではなかった。

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