2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
第711回 2007/01/18(木)

『柄谷行人著「世界共和国へ」を読む』(26)
想像力としてのネーションが指し示すもの



想像力はたんなる空想ではない。その意味で、ネーションは「想像された共同体」 であるという場合、それは「空想」ではなく「想像」だということに留意すべきです。 いいかえると、それはたんなる啓蒙によっては消すことができないような根 拠をもっているのです。



 ネーションもそのような意味で「想像的」な共同体なのです。ネーションにおいて は、現実の資本主義経済がもたらす格差、自由と平等の欠如が、想像的に補填され解 消されています。また、ネーションにおいては、支配の装置である国家とは異なる、 互酬的な共同体が想像されています。こうして、ネーションは、国家と資本主義経済 という異なる交換原理に立つものを想像的に綜合するわけです。


 この想像力としてのネーションの彼方にあるべきものを、柄谷さんは「アソシエーショ ニズム」と呼んでいる。

(ここから「第Ⅲ部 第4章アソシエーショニズム」に入ります。)


 アソシエーショニズムは、商品交換の原理が存在するような都市的空間で、国家や 共同体の拘束を斥けるとともに、共同体にあった互酬性を高次元で取りかえそうとす る運動です。それは先にのべたように、自由の互酬性(相互性)を実現することです。 つまり、カント的にいえば「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱う」よ うな社会を実現することです。


 『「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱う」ような社会』を、 私(たち)の問題意識から言い直してみる。

 まず、互酬という交換様式は国家や資本による富の再配分のことではない。あくまでも 等価価値交換(賃労働)の棄揚を意味する。それは産業や流通のシステムの面から言えば、 労働者による自主管理システムを構築することを意味する。従って、私としてはこれを最も 重要な点と考えるが、ヒエラルキーのない社会を理想とする。総じて国家の棄揚 ということになる。

 柄谷さんは「第4章」で「アソシエーショニズム」とは何か、その内実を詳しく論じているわ けだが、それをまずカントの宗教批判の検討から始めている。


 私はすでに、自由の互酬性(相互性)が普遍宗教として開示されたこと、そして、歴 史的に社会運動は普遍宗教の言葉を通し、また千年王国のような観念の力を通して なされてきたことを指摘してきました。

 しかし、ここで注意したいのは、それが宗教というかたちをとるかぎり、教会=国家 的なシステムに回収されてしまうということです。過去においても、現在においても、 宗教はそのように存在しています。それゆえ、宗教を否定しなければ、アソシエーショ ニズムは実現されない。けれども、宗教を否定することによってそもそも宗教としてし か開示されなかった「倫理」を失うことになってはならないのです。

 その点で、カントの宗教論は今もって重要です。それは宗教の批判と、宗教がはらむ 実践的意義を救出することとを同時的になそうとするものでした。

 第一に、カントは教会=国家的な形態をとった宗教を否定しました。彼の考えでは、 それは呪物崇拝にもとづくものです。《ツングース族のシャーマンから、教会や国家 を同時に治めるヨーロッパの高位聖職者にいたるまで、……その原理に隔たりがある わけではない》(『たんなる理性の限界内での宗教』、北岡武司訳)。

 他方で、カントは宗教を承認します。しかし、それは、宗教が道徳的法則 (自由の相互性)を開示する限りにおいてです。彼はそのような宗教を、歴史的な宗 教に対して、純粋理性宗教と呼んでいます。そして、後者にもとづいて「世界市民的な 道徳的共同体」が実現されたならば、歴史的な宗教制度、あるいは聖職者制度は廃棄 されるだろう。そこに、いわば「神の国」(アウグスティヌス)が実現されるだろう、 というのです。
 

 このカントの宗教批判は、私(たち)が既に見てきたように、宗教はその迷妄性を 取り去れば倫理の問題であるという吉本さんの宗教批判(『新新宗教批判』)や、 イエスやシャカが開示した「戦闘的宗教」に宗教の真髄をみる古田さんの宗教批判 (『「良心の自由」とは何か』)と同一線上にある。

 カントは「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱う」という道徳律を この宗教批判から導き出している。しかし、この道徳律は、「他者を手段としての み…扱う」ことで成り立っている資本主義とは根本的に相容れない。また、ヒエラ ルキーを根本原理とする国家とも相容れない。

 この道徳律を実現を可能にするためのカントの構想は次のようだった。


 第一に、商人資本の支配を斥けた小生産者たちのアソシエーションでした。もちろん、 これには歴史的な限界があります。彼は産業革命以前のマニュファクチュア段階、 つまり、職人的な労働者や単純商品生産者が多数であった状態で考えていたからです。 にもかかわらず、カントは、それ以後に出現する社会主義=アソシエーショニズム の核心をつかんでいたということができます。社会主義とは互酬的交換を高次元でとり かえすことにある。そしてそれは、分配的正義、つまり、再分配によって富の格差を 解消することではなく、そもそも富の格差が生じないような交換システムを実現する ことであるのです。

 第二に、カントは「神の国」の実現を具体的なかたちで考えていました。諸国家が その主権を譲渡することによって成立する世界共和国、それが「神の国」なのです。 カントは「永遠平和」を実現するための国際連合を提唱しました。これはあとで述べ るように、たんなる平和論ではない。資本と国家を揚棄する過程の第一歩なのです。

スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/725-a15bfb3c
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック