FC2ブログ
2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
449 「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(8)
オウム真理教事件について(2)
2006年3月9日(木)

 オウム真理教事件についての土屋さんの論述は次のように続く。


 オウム真理教事件については、いかなる極論も自由の原則を歪めることになるだろう。吉本隆明のように、大衆の殺戮を結果的に引き起こしてしまう行為を、むしろ宗教の真実性を示すものとして容認するようなことは、この自由社会の原則からはまったく受け入れることはできない。そこには、宗教を特権化する「エリート主義」が歴然としている。
(中略)
 宗教そのものについて論じる準備は私にはない。しかし、その私の貧弱な知識のかぎりにおいても、オウム真理教が修行としてやってきたことは、日本の仏教がやってきたことのコピーであった。オウム真理教の修行を否定するならば、日本の仏教の過去もまた否定しなければならない。
 私たちは、オウム事件に怒りを覚えたとしても、理性を失って驚いてはならないのだと思う。組織的になされた大衆殺戮に対して法律的対処をしながら、同時に、この社会の自由の原則を放棄しない。それが、自由社会の原則そのものである。この原則をこえでしまえば、いつでも、私たちは、肯定するにせよ否定するにせよ、両極で宗教を特権化して、自由社会の基盤を掘り崩してしまうのだ。



 この吉本隆明さんへの批判に対して「はてなマーク」と「びっくりマーク」と「がっかりマーク」がいくつも飛び出してきた。
 私は吉本さんの発言を注視し、その著作のほとんどを読んできた。オウム真理教事件についての論述を含む著書を、手元にあるものから取り出してみたら6冊あった。どれにも「大衆の殺戮を結果的に引き起こしてしまう行為を、むしろ宗教の真実性を示すものとして容認する」ような論文はない。また、吉本さんのよって立つ基盤は「エリート主義」からはまったく無縁な地点にある。
 土屋さんは吉本さんの発言をチャンと読んだのかしらと疑ってしまう。読んだ上での評言だとしたら、まったくの誤読としか言いようがない。また「オウム真理教が修行としてやってきたことは、日本の仏教がやってきたことのコピーであった。」という見識は何処から得たのだろうか。麻原彰晃の著書を検討したうえでこのような見識をはっきりと打ち出した識者を、私は吉本さん以外に知らない。その知見は宗教への深い造詣に裏打ちされている。土屋さんの著書からいろいろご教示を受けているのだけれど、ここでは知的誠実さという点でいささか疑念を感じている。

 ことばを覚え始めた頃の子どもはことばを倒置して覚えることがよくある。たとえば「バンザイ」を「ザンバイ」と言ったりする。「ドウブツ」は「ドウツブ」となる。私はこの「ドウツブ」を愛用している。たとえばカミさんとの会話で私はよく使う。「人間とは自然を逸脱したドウツブの謂いだ」とか「人間はどうしようもないドウツブだね」とか。

 人間と言うドウツブの逸脱の方向やその程度はさまざまあるが、人間をドウツブたらしめている最たるものは宗教の創出だと思う。宗教は紛れもなく人類がはぐくんできた文化の重要な一要素であるが、人を蒙昧にするアヘンでもある。「正義の原理」はあらゆる宗教(一般的に共同幻想といってよい)の存在を認めるが、あらゆる宗教(共同幻想)が可能性として孕んでいる不寛容が「正義の原理」の普遍化を拒む。
 あるいは次のように言ってもよい。いま人類の最重要課題は全ての人を生かしめるような新しい倫理の創出ではないかと私は思っている。それは人間が「ドウツブ」を超えたもっと高い精神性をもった「ドウツブ」とは別の存在になることを意味するだろう。そしてそれはまた人類が宗教を棄揚することを意味する。

 17世紀末の市民革命で人民が獲得した自由について論ずる中でマルクスは言う。

 「人間は宗教から解放されたのではなく、宗教の自由を得たのである。」(「ユダヤ人問題によせて」)

 「人間は宗教から開放されなければならない」と言っている。吉本さんの言い方で言うと「あらゆる共同幻想は死滅すべきである」ということだ。

 オウム真理教事件を前にして、なお「正義の原理」は有効か。オウム真理教事件とはなんだったのか。オウム真理教事件が私たちに突きつけた問題について、吉本さんの論述を読んでみることにする。

スポンサーサイト



 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック