2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
第704回 2007/01/10(水)

戦争と平和(5)
一人一人が自分の「平和」をバネに



 例えば僕にとって平和というのは何なんだというふうになれば、これは誰にも通じな くて、自分の持っている固有の生活状態とか、固有の家族状態とか、そういうものの中 から出てくる平和というものの感じとか波立っている感じとかいうものを見つけ出して いく以外にないということになります。

 つまり、一般論でいいますと、戦争についてはある程度、いま申し上げまし た通り突き詰めることはできますけれども、平和については各人の生活状態、 心の状態、それからそれを取り巻いている社会の状態というものの中に、それ ぞれが感じている平和というものを護っていく以外、あるいは実現していく以 外に、平和というのを一般論として定義することは非常にむずかしいし、また 極端に悲観的に考えれば、トルストイのように生きている限りはそれはないと いうふうに考えざるを得ないところまで、平和というのは個々別々の人々の生 の中にしかないということになってしまう。

 戦争と平和についての、僕等が考えてひとに言うことができるどん詰まりの 考え方といえば、そこの問題に帰着してしまうとおもいます。


 私の中には仏や神はいない。だから当然なこと、神頼みや仏頼みををするという発想も ない。単なる形式的な年中行事としても、お付き合いでも、初詣などしようという気には 全くなれない。

 もちろん、神仏を信仰する人を否定するつもりはない。しかし、「信仰のない心は貧し い」というようなもの言いには「よせやい。手前味噌もいい加減せい。」と言わざるを 得ない。
 こんな、テーマとはかけ離れたことを書き始めたのは、吉本さんの「平和論」から 神社への願掛けの絵馬を思い出したのだった。観光などで神社に行く機会があると、 私は絵馬に書かれている人々願いを読むのを楽しむ。そこに書かれている事こそ、 人それぞれののささやかながら切実な平和なのだと思う。

 それらのたくさんの平和が達成され守られることを願う気持ちにはおおいに 共感できる。でも、その願いを達成できるのは「神」ではなく、私たち一人一人の 平和への強い思いだ。ひとりひとりの持っている「平和」について考えは違っていても 、それを脅かす「敵」は同じはずだ。もちろんその「敵」は実際に行われる「戦争」 だけではない。現在進行中の経済政策や思想統制など、戦争を引き起こす素地全部が 「敵」なのだ。

 残念ながら、圧倒的多数の人が「敵」を見誤っているとしか、私には思えない。 一体どれほどの人が、現在の政治状況・社会状況が危険水域を越えているという認識 を持っているだろうか。いま、一人一人が自分自身の平和を確認し噛みしめて、それ をバネに一歩前に進みでるときではないか。

 次回からは「戦争と平和」の現状を考えます。
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