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第700回 2007/01/06(土)

戦争と平和
一般民衆にとって戦争とは何か


 以下は、吉本隆明著「戦争と平和」(文芸社)所収の同名の講演録(1995年) を、私見をまじえながら、要約したものです。


 戦争・内乱・紛争・テロなどいろいろなケースがありますが、ここでは二つ以上の国家 間の戦争に限って考えます。

 戦争で兵士となって実際に殺し合うのは私たち一般民衆(被支配階級)です。近・現代 の戦争では戦争で殺されるのは兵士だけではない。一般民衆もそれをまぬがれる事はで きない。いまイラクやアフガニスタンやレバノンなどで行われている戦争での惨事は、 毎日絶え間なく行われている。マスコミが報道しているのはそのほんの一部に過ぎない。

 60年ほど前に私たちの国が行った戦争では、アジアの国々で2千万人ほどの民衆が殺さ れた。私たちの国では、兵士のほかに広島・長崎の原爆や東京をはじめ150余の都市での 無差別爆撃などの死者を合わせて約300万人以上が殺された。

 親や子や兄弟姉妹を失った上に家屋・家財を全て失い、食べ物も満足に得られない人々が 世界中にあふれた。私もそのうちの一人でした。

 戦争についてマルクスは次のように考えた。
 強い国(侵略する国)と弱い国がが戦えば、強い方の国が相手国を占領したり賠償を 取ったりして勝利する。これが戦争の一般的な形態です。このような戦争において、当事国 以外の民衆は弱い国(侵略された国)に加担すべきだ。それが一般民衆の立場であるべきだ。

 レーニンは次のように言っている。
 戦争の当事国の民衆はにとっては、自国が負けるような加担をするのが正しい立場だ。

 これらに対して異議を唱えた思想家がいます。シモーヌ・ヴェイユです。民衆の立場と いうからには、相手国の民衆の立場も視野に入れなければウソである。そうすると、 自国が負けるように加担するというのは相手国が勝つことに加担することだから、相手国の民衆が 自国が負けるように加担することと矛盾する、というのです。
 さらにヴェイユは、精神労働と肉体労働という観点から戦争を考えている。

(「精神労働と肉体労働」の問題はヴェイユがトコトン考えていった問題です。 『「ほんとうの考え・うその考え」―シモーヌ・ヴェイユの神』を参照 してください。)


 それではヴェイユはどういうふうに考えたかというと、こういうふうに戦争 というものを追い詰めていくと絶望的だというふうに考えたんです。

 どうして絶望的かというと、民衆がいて、どんな政府であろうと政府がある。 どんな政府もあんまりよくはないと考えたとしても、精神的あるいは技術的な 労働をする人と肉体的な労働をする人 - 戦争を例にとれば参謀本部みたいに、 図上で「こう考えて、こうやればいい」と言っている人と現に兵士となって戦 場に行って命のやりとりをする人 - との区別、つまりより多く精神的なもの が関与する労働と体を動かすという労働との区別は人間の中からなくすことが できないんじゃないか。そうすると必ず、より多く精神的な労働をしている人 がより参謀本部的な、つまり命のやりとりからはちょっと離れたところで何か 命令していればいいみたいな形に、どうしてもなっていくので、精神労働とい うことと肉体労働ということとの区別、差別といいましょうか、あるいは分業 といいましょうか、そういうものがある限り、ちょっと絶望的なのではないか というのがヴェイユの追い詰めたところであるわけです。

 ヴエイユはそれ以上の戦争についての考え方とか解決の仕方とかいうのを考 えることなしに、そこのところで行き詰まってしまったといいますか、終わっ てしまったというふうに、大雑把にいうと言うことができます。


 ここまで考え詰めてくると、もう行き詰まりです。これは戦争は起こり得るものという 前提で考えているからで、戦争そのものをなくす以外には方法はないということになる。
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