2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
第696回 2006/12/31(日)

『柄谷行人著「世界共和国へ」を読む』(21)
商業資本から産業資本へ


 絶対主義王権の時代に商品交換の原理が支配的となり、やがて都市の商工業の 担い手であった商工中間階級(ブルジョアジー)が経済的な支配階級を形成していった。  商人資本は、基本的には遠隔地との交易により、その間の価値体系の差異から 剰余価値を得ている。それは重商主義と呼ばれている。諸国間が貿易によって抗争した 時代だった。そして17世紀に、オランダが世界商業・マニュファクチュア・海外植民地 においても頂点に立った。しかし、ここからは「産業資本主義」は起きなかった。 それは先ずイギリスに生じた。

 産業資本主義がなぜイギリスで始まったのか、それを柄谷さんはマルクスの「資本論」 を援用しながら論じている。その柄谷さんの論考を要約する。

 マルクスは生産資本を生産過程の面からだけ見るのではなく、流通過程にも焦点 をあて、産業資本を商業資本の変形とと考えた。


 したがって、資本は、流通から生まれることはできないのであり、しかも流通を離れて 生まれることもできないのである。資本は、流通のなかで生まれざるをえないと同時に、 流通のなかで生まれてはならないのだ。……貨幣の資本への転化は、商品交換に内在する 法則を基礎にして展開されるべきであり、したがって等価の交換がその出発点と見なされ る。まだ資本家の幼虫にすぎぬわが貨幣所有者は、商品をその価値で買い、その価値で売 るが、しかもこの過程の終りには、彼が投じたよりも多くの価値を引き出さねばならない。 彼が蝶に成長するのは、流通部面においてでなければならず、また流通部面においてであ ってはならない。これが問題の条件である。さあロードス島だ、さあ跳べ。(「資本論」第 一巻)
「流通のなかで生まれざるをえないと同時に、流通のなかで生まれてはならない」とか 「流通部面においてでなければならず、また流通部面においてであってはならない」とか、 これはどういう意味だろうか。この文節には「注」がある。それによると「資本形成 は、商品価格が商品価値に等しいばあいにでも可能でなければならない。」という意で あると書かれている。この意味は柄谷さんの説明でより明らかになる。

 まず、『商人資本の蓄積過程は、貨幣→商品→貨幣+α、つまり、M-C-M'(M+⊿M) として表示』されることを確認しておこう。


 このアンチノミー(二律背反)は、つぎのように考えれば解決されます。それは M-C-M’という流通過程において、特殊な商品を見いだすことです。その商品とは、 それを用いることが生産過程であるような商品、つまり労働力です。

 くわしくいうと、産業資本は、商人資本のようにたんに商品を買って売るのではなく、 みずから生産設備を用意し原料を買い、そして労働者を雇用して、生産した商品(C)を 売るわけです。そこで、産業資本の価値増殖過程は、

M-C…P…C'-M'
(つまり、貨幣-商品(生産手段・原料・労働力)…生産過程…商品-貨幣+α)

という公式で示されます。商人資本との違いは、このCの部分の一部である、労働力とい う商品にあります。産業資本の価値増殖をもたらすのは、このような商品です。


 つまり、産業資本は生産手段をもたず労働力以外に売るものをもたないプロレタリアを 搾取することによって剰余価値を得る。しかしその労働力は貸労働でなければならない。 奴隷制や農奴制のもとでは産業資本主義は発達していない。労働力を売るプロレタリアは、 同時に労働力を売って得た賃金で生産物を買う消費者でなければならない。イギリスで 産業資本主義が生まれた秘密のそこにある。


 イギリスで産業資本主義が起こったのは、商人とギルド的な職人がいた都市では なく、農村の近傍に形成された新しい都市=市場です。そこに、農村からプロレタリア がつぎつぎに入ってきた。そこで、「産業家が商人となって、直接に大規横に商業のた めに生産する」ということがありえたのです。そして、プロレタリア自身がその生産物 を買い消費した。各地にできたそうした自律的な市場圏がつながって、国内市場が作り 出されたわけです。

 単純化していえば、商人資本が外国(遠隔地)に向かっていたのに対して、産業資本 は国内に遠隔地を見つけた。そして、それがまさに生産=消費するプロレタリアであった ということです。
 
スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/710-bc8e31f2
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック
サレーニオとサリーリオ、あるいはサリーリオとサレーニオ-お互いに取替え可能な名前を持ち、お互いに取り替え可能しか台詞しか述べることの無いこの二人の友人は、まさにその取り替え可能なことゆえに、アントーニオの友人の中で最も取るに足りない人物であることを象徴している。そして、実は、この取るに足りない二人の男たちの取るに足りない台詞によって、『ヴェニスの商人』のテキストはそれ自身をめぐってその後なさ...
2015/08/05(水) 21:11:10 | 投資一族のブログ