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448 「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(7)
オウム真理教事件について(1)
2006年3月9日(木)


 評伝「ロールズ 正義の原理」(第443回で提示)では「正義論」を概観するための抄訳が掲載されている。不寛容者に対する対処の項はより分かりやすく書かれているので改めて掲載する。


 次に寛容の原理。
 これは、近代国家をスムーズに運営するための手段ないし建て前として要求されるものではない。道徳的・宗教的自由は、あくまでも平等な自由という原理から導き出される(第三四節 寛容と共同の利益)。
 寛容原理を食い物にして不寛容な宗派・団体がのさばり、ついには寛容な人びとが抑圧される。そうした逆説的な事態を避けるためだからといって、不寛容派の自由を否定するのもよろしくない。むしろ連中にも自由を認めておけば、その自由が不寛容な人びとの心中に「平等な自由」への信念を徐々に培ってくれるだろう。いずれにせよ、私たちはそうした迂路に賭けるしかあるまい(第一二五節 不寛容派に対する寛容)。



 「正義論」は政治哲学の研究書だが、ここではむしろ倫理の書というおもむきである。社会に「正義の原理」があまねく浸透する過程としてなら、このような「迂路」しかありえないだろう。
 オウム真理教事件を、土屋さんは次のように論じている。


 法律はけっして個別な事例にだけ適用されるものではない。一つの判断の成立は、その判断が将来にわたっても採用されることを意味している。慎重さは、当然に要求される。
 ここでは、具体的な事件に深く入り込むことはしない。オウム真理教のことを、子細に論じることはしない。しかし、ロールズの条件設定を前提にしたとき、私たちが、オウム真理教に対して、どのように対処すべきであるかは、かなりのところで確認することはでき そうだ。
 不寛容な者を否定するかどうかの条件は、市民の自由の条件の重大な危機のうちにこそあり、オウム真理教という宗教の存在自身を、条件にすることはできない。つまり、松本サリン事件、坂本弁護士一家殺害事件、地下鉄サリン事件という、一連の事件の現象において、オウム真理教は裁かれるべきであるが、その信仰を条件にして裁かれるべきではない。ましてや、現実に基本法(憲法)と市民の生命への危険が認められなくなった時点で、遡及的に「破壊活動防止法」を適用したことについては、ロールズ的原則はこれを否定するだろう。
 自由な制度がもつ本来的な安定性への信頼を失うべきではない、とロールズはいう。異端者の存在をも許容する強さを、自由社会はもっていなければならない、とロールズはいうのだ。



 「正義の原理」からは当然の主張であり、私もこの主張をうべなう。しかし残念ながら現実の社会はこの主張が実行されるほどにはまだ成熟していない。
 2年前に麻原彰晃の三女が、合格したにもかかわらずに和光大学への入学を拒否された。三女さんは裁判に訴えていたが、「入学拒否は違法」という判決を得て勝訴している。この 2月のことである。
 にもかかわらず、今度は次男が合格した中学(春日部共栄中学)への入学を拒否された。3月 2日の報道である。

 では現在、未成熟なのは社会だけだろうか。

 宗教の教義や思想の内容を裁くことが大日本帝国時代には大手を振るってまかり通っていた。小林多喜二や大杉栄のように、裁判さえなく虐殺された人もいた。
 ここで、この1月の「横浜事件」の再審の判決が思い出される。横浜地裁松尾昭一裁判長は、「治安維持法が廃止されたことなどを根拠に、無罪か有罪か判断せずに裁判の手続きを打ち切る形式的な判決(免訴)」をしている。これに対して、弁護団長の森川金寿さんは次のように言っている。

 「非常に残念。日本の司法はこの程度なのかと落胆した。人権に配慮したとは到底言えない、歯切れの悪い判決だ」

 さて、オウム真理教事件の無差別殺戮は裁判で裁かれるべきだが、この事件はそれだけで済ますことのできない大きな問題を孕んでいる。「正義論」の問題としてではなく、宗教の問題として。

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