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第685回 2006/12/19(火)

『国家意志』とは何か(4)
「資本の意志」と「経済的権力」


謬見3
(1)
『市民社会が国家によって「総括」されるのは、ただ市民社会の運動する主体である 資本が、労働力および土地を包摂しえず、それらが、その実体的根拠に基づいて外部 に設定され、その間に階級闘争や対立関係を想定したために、市民社会内部で「総括」 されえないことによっていた』

(2)
『原理論は、まさに市民社会に対応する意識が形成されているならば、すなわち市民 社会が、本質としての資本主義=階級関係に過不足なく対応するものとするならば、 市民社会的意識・イデオロギーを「法規範」にまで高める必要がないことを示す。 だが、同時に市民社会はそれとは<不対応>の意識を生み出さざるをえない存在なの である。したがってこうした<不対応>、市民社会から<ずれ>た意識、イデオロギーが 形成されるとき、市民社会イデオロギーの法的規範への普遍化が要請されることになる。 しかし問題はあくまでもイデオロギーの領域のことであり、とりわけ被支配階級たる労 働者階級の主観に関することであって、そのことは明らかに原理論の領域を越える問題 である』

 とても分かりにくい文章だ。私なりの解釈で言い直してみる。

(1)
『市民社会の形成発展の主体である資本は、労働力や土地を自らの自由になるものとして 包摂できないため、諸階級・諸階層との階級闘争や対立関係を想定せざるを得なかった。つまり、 市民社会の中だけで市民社会を「統括」することができなかった。それゆえに市民社会を「統括」 する国家(第三権力)を必要とした。』

(2)
『原理論(「宇野経済学」の)によれば、市民社会の本質としての資本主義=階 級関係をそのまま受け入れる非敵対的な(<対応>した)市民社会的意識・イデオロギーならば、それを「法規範」として 定立する必要はない。しかし、市民社会はその本質とは敵対的な(<不対応>な<ずれ>た) 市民社会的意識・イデオロギーを生む必然性を持っている。特に労働者階級の主観にもとづくイデオロギーがそれ である。そのような敵対的な市民社会的意識・イデオロギーに対処するために、 非敵対的な市民社会的意識・イデオロギーを普遍的な法的規範として定立することが要請される。 しかしそれはイデオロギーの問題であり、原理論とはまた別の問題である。』

   鎌倉・中村氏のこの論述を滝村さんは、他の部分も引用しながら、次のように解説し ている。


 「基盤」としての「資本主義社会」は、どういうわけか全く判然としないが、その 「階級的本質」とは不対応の敵対的な思想・イデオロギーを、「あらゆる領域の中から 生」み出し、ここにかかるイデオロギー的幻想領域を直接実体的に抱え込むことに よって、「資本主義社会」との「ずれ」をもった「市民社会lが生まれる。かくて 「市民社会」は、

「市民社会は、資本主義社会において必然的に形成される物神的外観=仮観なので ある」
「市民社会が所詮階級関係の本質の隠蔽形態」
「基盤における階級関係の隠蔽形態である市民社会J

等と規定されることになる。そして、かかる「資本主義社会」の幻想的・イデオロギー的 隠蔽形態としての、「市民社会」に基礎づけられてはじめて、「法治国家」が成立すると されている。


 まがりなりにも「滝村国家論」をいくらか学んできた私(たち)にも鎌倉・中村両氏の 理論の理論的な不備・欠陥がいよいよ明瞭となってくる。滝村さんは、 「疑問点1・2」と「謬論1・2・3」を総合して、次のように総括している。


 まず第一に「資本主義社会」から「市民社会」への論理的転成を媒介する、思想・イデ オロギーの形成を主体的に担うものこそ、「とりわけ被支配階級たる労働者階級の主観に 関すること」とされ、この意味でそれは国家的支配の存立とくに国家意志形成を大きく 支え、また直接的に規定すべき根本問題として位置づけられる。先の第一疑問点とそれ に関わる謬論は、ここから必然化されたものである。

 第二に、直接に「階級的本質」を把持することによって、自律的独立を完備している のは、あくまで「基盤」としての「資本主義社会」である。従って、「市民社会的イデ オロギー」を幻想的・イデオロギー的土台として形成された「法的規範」は、それ自体 形式的かつ普遍的ないわば純粋観念の如き存在であって、直接「階級的性格」をもたな い。かくて「法的規範」は、直接に「階級的本質」を把持した「資本主義社会」を大き く形式的に維持することによってはじめて、媒介された階級性を実現するにすぎないと いう、先の謬論に連なっていく。


 なぜこのような謬論が出てくるのか。宇野経済学の原理論を絶対的な前提としていて、 それをそのまま国家論上の原理論としてしまっているからであると、滝村さんは指摘し ている。


 両氏にあっては、宇野経済学で狭義にとらえられた「資本主義社会」が、「市民社 会」と機械的に切断されて解釈されている。これは、「資本主義社会」における直接 の階級的搾取関係から、意志の問題をそっくり抜き取ることによって必然化されたも のであって、つきつめていけば、宇野経済学における唯物史観の実質的不在に突きあ たる。換言すればそれは、唯物史観に独自の原理的・方法的位相を全く無視すること によって、実質上それを経済学に解消(解体)させてしまった点に基因する。

 しかし両氏を含めて宇野経済学の発想に立つ人々は、一体全体資本制的搾取が、 <資本の意志>への労働者の服従という、規範としての<意志>を軸とした意志の 支配=従属関係の創出を媒介としないで、現実的に可能とでも考えているのだろうか?

 然り、資本制的搾取とは、現実的には資本家による労働者へ の現実的支配としてのみ 存在するのであって、<資本の意志>を必須的媒介とした労働者に対する経済的支配と いう点で、そこには経済的権力が成立している。さればこそマルクスも『資本論』 で、かかる<資本の意志>による組織化とそこでの経済権力について再三言及しているわ けだ。この点とくに両氏の根本的再考を乞うものである。

 政治的事象も経済的事象も、歴史的・社会的事象としての一般性をもっている。 従って、政治学・経済学としての原理的解明においては、<世界史>の発展史観を 方法的土台とした一般的な社会構成理論としての唯物史観を、方法上縦横に駆使・運用 しなければならぬ。くどいようだが、唯物史観を原理的・方法的前提としなければなら ない点においてのみ、政治学と経済学とは方法的共通性をもっているのである。 従って、国家論の理論的追究と体系的構成にあたって、徹頭徹尾原理的・方法的に 依拠すべきは<唯物史観>である。間違っても経済学とくに『資本論』の宇野弘蔵的 解釈としての宇野経済学の方法的発想ではありえない。

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森越のような腑抜けが委員長では日教組は本当に壊滅しかねない
森越のような腑抜けが委員長では日教組は本当に壊滅しかねないと私も感じています。すでに、教育再生会議の八次に誤ってしまってる。つまり、権力に投降しているといってもいいでしょう。法律でいかようにもできるとする新教育基本法によって、日教組はつぶされていくことでしょう。国労の比ではないでしょう。戦後が戦争準備にかわるとき、市民は憲法違反の自民党ブルジョア独裁政権と、日本版ネオコン-統一協会と創価学会の宗教右翼政権を打倒するためにたちあがらなければ、右翼や愛国者や金持ちでなければ生きていけない「市民社会」に屈従を強いられていくことになるでしょう。中核派のビラの100%を私は支持したいと考えています。
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