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第671回 2006/12/02(金)

唯物史観と国家論の方法(2)
<世界史>とは何か。


 政治学や経済学のような社会科学と個別実証史学とでは、その対象が異なるように、 おのずとその方法も異なる。

 個別実証史学はあくまで個別歴史的世界の直接的<事実>としての社会事象を 対象としている。そして、その個別歴史的世界の統一的な実相を再構成することがその 学的使命である。それは、もちろん理論的考察も必要とするが、主として資史料の 発掘・収集・集成というような個別歴史に密着した直接的<事実>の探索と確定が その方法となる。

 これに対して、社会科学は社会事象一般を対象とする。しかし、社会事象一般というの ものがそれ自体として直接的な形態で存在するわけではない。個別地実証史学によって 提出されたさまざまな個別歴史的世界の具体的な歴史的事象を正面にすえて、その 現象的諸形態の個別性や特殊性を捨象し、その背後に横たわる一般的性格や内的な構造 的関連を論理的に追究することになる。そのようにして、社会事象一般の本質論を一般 的理論あるいは法則として構成し定立することが社会科学の使命である。これは自然科 学と同様の方法であり、社会事象一般を探求する学問が社会<科学>と呼ばれるゆえん である。

 個別歴史的事象を一般的な社会的事象として扱うという高度な論理的抽象のためには 、個別実証史学とは異なる位相の特別な方法論を必要とする。その要請に真っ向から対応 することができる方法論こそ、マルクスの唯物史観にほかならない。そして、その唯物史観 における歴史観として<世界史>という概念が重要な土台をなす。滝村さんは次のように 述べている。


 ところがかかる唯物史観の存立に直接関わる根本の方法的把握が、マルクス主義・非 マルクス主義を問わず、これまで私以外の誰によっても主張されたことがないのであ る。

(中略)

 形式的にはヘーゲルから継承したマルクスの<世界史>なる概念とは、いわゆる直接 の時代的世界性、つまり時々の時代として現象する場所的・空間的な意味での世界性を 意味するのでもなければ、また、個別歴史の機械的な集合ないし総体としての世界性を 指すのでもない。

 あくまで時代的世界の推移を数世紀という巨視的な射程において観察して、時々の 時代的世界の尖瑞をゆく、あるいはその尖端に躍り出た諸民族が、経済・政治・文化の 統一的な様式において、従前支配的だったそれを質的に凌駕する現実的可能性を把持す ることによって君臨するに到ったとき、この新たに到来せる統一的様式をその根抵的な 原理すなわち高度の一般的論理において抽象・把握するところに成立する概念である。

 マルクスはかかる社会構成の<世界史的>発展を、とくに基底的な経済的社会構成に 即して、

『大ざっぱにいって、経済的社会構成が進歩してゆく段階として、アジア的、古代的、 封建的、および近代的ブルジョア的生産様式をあげることができる。ブルジョア的生産 諸関係は、社会的生産過程の敵対的な、といっても個人的な敵対の意味ではなく、諸個 人の社会的生活諸条件から生じてくる敵対という意味での敵対的な、形態の最後のもの である』(『経済学批判』序言)

 と定式化したわけである。

 従って問題の核心は、ヘーゲルそしてマルクスにおいて、何故かかる個別歴史の <世界史的>論理構成といった、高度の一般的な歴史理論的把握と抽象が必然化された かにある。

 すでに指摘しておいた如く、個別実証史学の方法的特質は、個別歴史の統一的な時代 的再構成に収赦される、直接の<事実>的追究と確定にある。従って個別歴史に対する かかる高度の一般的な歴史理論的抽象は、個別実証史学が直接方法的に必要とするもの ではありえない。然り、唯物史観における<世界史>の発展史観は、個別実証史学の 直接的方法として提起されたものではない。それは何よりも社会科学の原理的・一般理 論的解明における必須の方法的見地として導入され、構成されたものに他ならなかった。 換言するならばそれは、歴史的事象に対する直接の実証的追究の方法ではなく、歴史的 事象に対する一般的な社会的事象としての、高度の原理的解明の方法として確立された ものである。私は先に、社会的事象は直接には個別歴史的事象としてのみ存在するので あるから、社会科学の原理的解明のためには、かかる歴史的世界の只中に突入しなけれ ばならないと記したが、<世界史>の発展史観こそ、まさに、直接の歴史的事象を一般 的な社会的事象としてとり扱う際に必須の、科学的方法に他ならない。

 というのは、政治的また経済的な社会的事象は、直接には人間社会の歴史的発展、 従ってとりもなおさず<アジア的>・<古代的>・<中世的>・<近代的>な<世界 史的>発展段階を通じて、その本来的性格に対応した内的諸契機を全面的に開花発展 せしめる。従って、当該事象の内的諸契機がその本質的性格に対応して最も完成され た姿態で登場してくる、<近代的>な形態を正面に据えての原理的解明に際しては、 その背後の過程的形態として、<アジア的>・<古代的>・<中世的>段階での諸形 態を、つねに必須の前提的考察の対象として方法的に組み込んでおかねばならない。

 マルクスが『資本論』の執筆過程で『資本主義的生産に先行する諸形態』の如き、 <近代>以前の<世界史的>な経済的社会構成に直接関わる諸形態を、膨大な個別歴史 的資史料をふまえて自ら論理的に構成しなければならなかったのも、まさにかかる原浬 的解明に伴なう必須の方法的要請であった。

 また、われわれがヘーゲルやマルクスと全く同様に、人間社会の個別歴史的展開に 伴なって時々の時代的世界に君臨した支配的かつ(支配的故に)一般的な社会構成を、 高度の論理的な独立的完結性において、他ならぬ<世界史的>社会構成として把握す ること、つまりは個別歴史の<世界史的>論理構成を、典型的な社会的事象の原理的 ないし一般理論的解明における、必須の科学的方法として把握し構成しなければなら ないのも、かかる意味においてである。


 <近代的国家>に先行する<アジア的>・<古代的>・<中世的>という<歴史的 国家>段階での諸形態を組み込んでいない国家論が皮相で平板な単なる思弁にならな らざるを得ないことがよく理解できる。
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