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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
第669回 2006/11/28(火)

『柄谷行人著「世界共和国へ」を読む』(20)
国家の本質


 「1章 3」以降は<近代的国家>を対象にした国家論を展開している。そこでは 西洋の哲学者や政治学者や経済学者の学説を引き合いに出して論を進めている。 論述を追いながら問題点を取り出してみる。

『国家というものは何よりも、他の国家に対して存在しています。だからこそ、国家は 内部から見たものとは違ってくるのです。市民革命以後に主流になった社会契約論の見 方によれば、国家の意志とは国民の意志であり、選挙を通して政府によってそれが実行 されると考えられています。ところが、国家は政府とは別のものであり、国民の意志か ら独立した意志をもっていると考えるべきです。』

 では「国家意志」とは何か。それを解明することが肝要なのだが、これ以上の論述 はない。

『国家が存在するということを人が如実に感じるのは、戦争においてです。つまり、他の 国家との戦争において、国家の本質が出てくるのです。』

 私は「国家の存在」を日々如実に感じている。「国家の本質」が「他の国家との戦争におい て」出てくるということは、国家の本質は「暴力」といいたいのだろうか。<歴史的国家> から<近代国家>への発展おいて「官僚機構と常備軍」は必須の要件だった。しかし、それ は近代国家という構成体の一部ではあっても「本質」ではない。

 このあとホッブスの「社会契約による国家論」を「暴力」をてこにした「服従と保護」と いう「交換」の観点からまとめている。しかし、後で

『社会契約の考えによれば、国家は人民による意志決定にもとづくものです。それ は国家を政府と同一視することになります。一方、マルクス主義者は、国家を経 済的な階級(ブルジョアジー)が支配するための手段として見てきました。それは、 国家の自立性を認めないという点では、社会契約論者と同じです。』

と、俗流マルクス主義国家論とともに切って捨てている。なぜホッブスを持ち出したのか 、理解に苦しむ。
 つぎにヘーゲルを下敷きにして、「官僚と議会」について論じる。

『議会制民主主義が発達したはずの今日の先進国において、官僚制の支配はますます 強まっています。ただ、そのように見えないようになっているのです。議会制民主主 義とは、実質的に、官僚あるいはそれに類する者たちが立案したことを、国民が自 分で決めたかのように思いこむようにする、手の込んだ手続きです。』

 ここでも肝心なのは「手の込んだ手続き」の解明なのだが、それは放置される。
 つぎは国家が行う「社会福祉や労働政策・教育政策」を取り上げるが、今度は ウエーバーの「家父長的家産制」を持ち出して、 『それは、国家を略取-再分配という交換様式において見るならば、べつに驚くべきこ とではありません。』と済ましてしまう。
 しかしここでも肝心なのは、「社会福祉や労働政策・教育政策」のような国家意志が どのようにして形成されるのかということの解明でなければならない。
 最後にマルクスを用いて、フランス革命において「議会・官僚・常備軍」という国家 機構が自立していく過程を論じている。

『そもそも議会制を無視して、近代国家を考えることはできません。1848年における フランスの革命がもたらしたのは、普通選挙です。そして、その後の事態はすべて、こ の議会(代表制)の中において生じたのです。』

 この「議会」と「官僚」・「政府」との関係を構造的立体的に解明することを 期待したいのだが、この期待もかなえられえない。

『国家機構の自立は、ボナパルトが議会をこえた皇帝として自立することによってのみ 可能だったのです。たとえば、マルクスは、ルイ・ボナパルトがあらゆる階級に対して 気前よく「増与」することによって権威を得ていく過程を描いています。《ボナパルト はあらゆる階級に対して家父長的な役を演じたいと思う。しかし、彼は、他の階級から 取ってこないことには、どの階級にも何もやれない》(『ルイ・ボナパルトのプリュメール十八 日のクーデター』)。ボナパルトは略取したものを再分配しているだけなのに、それが「贈与」 として受けとめられている。そのため、彼はすべての階級に贈与するような超越者、すな わち皇帝として表象されます。しかし、この過程は、国家機構による略取-再分配という メカニズムが、贈与-返礼という互酬の表象の下で機能するようになることを意味してい るのです。』

 しかし、ルイ・ボナパルトの登場は、滝村さんが「例外的」統治形態と呼んでいるもの であり、『「例外的」及び「ファシズム的」統治形態といえども、ブルジョアジーが経済 的に君臨する近代的市民社会を現実的土台としており、従って、近代的<私法>を全的に 継承する近代的第三権力としての本質を把持している。しかしそれは、あくまで専制的 統治権カが政治的に君臨する<公法>的秩序の第一義性を大前提としたうえでのことで あってブルジョアジーの意のままになりえない危機に瀕した「ブルジョア独裁」であり、 「ブルジョア独裁」それ自体の存亡に関わる「例外的」形態に他ならない。』

 ここまでの論述で柄谷さんが取り出してきた哲学者や政治学者や経済学者を列挙すると、 ホッブス、ロック、グラシム、フーコー、ヘーゲル、ケインズ、ウエーバー、マルクス。 この博覧強記がかえってマイナスになっている。<国家>の周りをあれこれとなでまわ しているが、いっこうに<国家>の本質には届かない。

 やはり、国家論に関しては「滝村国家論」にしくはない。次回からまた横道に入り、 上にあげた問題点について、「滝村国家論」を読むことにする。
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 弾圧に備えた最低限の法律知識と心構えの救援ノートを読もう  これから毎日勾留
2006/11/28(火) 20:40:48 | 雑談日記(徒然なるままに、。)