2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
445 「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(4)
同性愛(2)
2006年3月1日(月)


 私たち日本人は、たぶん、同性愛を犯罪とは思わない。趣向の問題と思っている。しかしヨーロッパでは同性愛はかっては犯罪であったという。例えばイギリスでは 19世紀中ごろではその最高刑は死刑だった。土屋さんは当時の「ピロリー」というおぞましい公開死刑の新聞記事を紹介している。


 たとえば、ロンドンで「さらし刑」がある日には、朝早くから五千人をこす見物人が集まってくる。特に、魚河岸で働く女性が多かった。この見物人たちにかこまれながら、「同性愛」で告発された男は、町中を引きまわされ、広場にさらされた。首には首かせがかけられている。見物人は、そこで売られている、テームズ河からひろってきた犬や猫の死骸を買って、それを同性愛の男に投げつけるのだ。それだけではない。石を投げたり、殴打することは黙認されていた。
 「顎は割られ、眼は潰され、ほとんど気を失って、そのまま首かせで首がしまって死んでしまう」のだ。そう当時の新聞は書いている。



 同性愛が「犯罪」から「趣味」の問題へと正当化されるのには、多くの思想家の自由をめぐる言説を必要とした。ロック、ミル、ベンサムという思想の継承発展を土屋さんはたどっているが、それは割愛する。
イギリスで同性愛が完全に合法化されたのは、なんと、1967年だという。なぜこれほどまでに同性愛に対する禁忌が根深いのか、たぶん宗教上の問題だろう。

 映画「フィラデルフィア」。証人台に立った解雇者が原告側弁護人から解雇の真の理由を厳しく問い詰められる法廷場面がある。同性愛に対する憎悪の感情を隠せなくなりそうな場面で「旧約や新約にも…」と言いかける。その後の言葉は弁護人のたたみかける質問でかき消されるが、同性愛を忌み嫌う自分の感情の正当性を聖書に求めようとしたのだろう。

 宗教が果たしてきたこのような役回りに触れるとき、「宗教はアヘンである」というマルクスの言葉を私は肯う。勿論それが宗教の一面に過ぎず、多くの人には宗教が人生の支柱になっていることは承知している。しかし私の中には本質的に「宗教は迷妄」という認識が根強くある。その自分の認識を検証するためにも「宗教とは何か」という課題がずーっと念頭にあった。いずれ取り上げたいと思っている。

 さて、土屋さんはベンサムの次の文章を引用している。


 テーブルの快楽の場合は、プロテスタントは禁じられた食物を食べでもけっしてそれを道徳の問題とはしなかった。人々は健康を害しない程度に過食を戒めながら口の喜びにつかえたのだ。プロテスタントもカトリックもこの非合法の快楽(同性愛)が実際にどんな害になるかをたずねることもなく古くからの禁制にしたがったのである。



 同性愛は「性の趣味」の問題にすぎず、食卓の問題と同様、性の問題にも公権力は介入すべきではないと言っている。
 「正義の原理」にそって言えば次のようになる。


 問われているのは、「生きることの多様性」である。どう生きるかは、私たちが決める。教育も福祉も、本来的には生きることの多様性を基盤にしている。文部省や厚生省のマニュアルで決まるものではない。ドラッカーならば、教育と福祉に、政府は資金を提供しても、実際の運営は、外部に委託すべきである、ということになる。現場の独創性、柔軟さ、多様性こそが、教育と福祉の活力になる。 それは、私たちの私的な世界でも同じである。誰を愛するかまで、社会が口を出すことはできない。ましてや、誰を愛したかを理由にして、平等な自由への権利を制限することはできない。



 イシハラらには「正義の原理」を理解する精神と能力が決定的に欠けてる。

 「予防訴訟」は3月20日に最終弁論が行われて結審すると言う。せめて裁判官には「正義の原理」を理解する高邁な精神と能力を持っていてほしいと願っているが、はたしてどうだろうか。


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