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第647回 2006/11/03(金)

国家の起源とその本質(7)
「部族国家」:マケドニアの場合


 紀元前4世紀のマケドニアはかろうじて<部族国家>的結合をなしていた一部族 的共同体に過ぎなかったが、フィリッポス二世(在位紀元前359年 - 紀元前336年)・ アレクサンダー(在位前336年 - 前323年)という二代の傑出した政治・軍事指導者の出現 によって、またたく間に近隣周辺諸国を征服し一気に世界的大帝国を築いた。

 滝村さんは原随圏著『アレクサンドロス大王の父』(新潮社)を『厳密精緻な実証史的 考証をふまえた・実に雄大な政治史(ないし政治家)論』と絶賛している。そして、 その著書からの引用文をもとに、「フィリッボス二世登場以前→フィリッボス二世時代 →アレクサンダー大王時代」と推移していくマケドニアの<部族国家>の構成をたどって いる。


 マケドニア人はギリシア民族の最後にバルカン半島に入って来たものと思われる。 そしてその生活の様式も、ホメロスの叙事詩に伝えられる昔のギリシア人のように 諸部族に分れて各々酋長を戴いていた。そして都市国家を作るということもなかった。 あたかもアテナイの全盛時代においても、アイトリア人とかエピロス人は原始的な生活 を送っていたといわれるが、ちょうどそれに近い原始生活をしていたのである。

 彼らは家長的な王、将帥としての力をもつ王、政治的にも祭祀の上にも最高の権能を もった王を戴いていたのである。その王の点についても、ちょうどホメロスにあらわれ てくるギリシア人の姿に似たものであった。例えば軍人の会によって王が推戴されたり、 あるいは長老が王の顧問となっていた如きがそれである。ただホメロス時代には統一す るほどの大きな勢力がなかったのに対して、マケドニアにおいては、多年の武力征服に よって、上下マケドニア地方がともかく統合されて一国を形成し、被征服地方の貴族た ちは王の下に隷属していたという差違がある。またホメロス時代に仲間(ヘタイロイ) というものが、食卓仲間であり戦友であったのに対して、マケドニアにおいでは、王の 下に隷 属する武士がヘタイロイであり、その中からさらに王側近のヘタイロイが選ばれて顧問となってい たのであった。

 ホメロスの時代に『食卓の仲間』としての武士をへタイロイといった。血縁による 結束であった。マケドニアにおいてもへタイロイと呼ばれる騎士があつて会食の時に 王と同じ食卓につく名誉が与えられた。昔のような血族の集団ではないが名門のもの であった。プトレマイオス・アロリテスがテパイに人質を出した時には、自分の子供 と五十人のへタイロイを送っている。これはへタイロイが重視きれていたためである。

 軍においては、わけても戦友たちが苦楽をともにするという精神的連鎖が必要であ る。フィリッポスは、テバイにおいて『神聖隊』がつくられて、しばしば至難と思わ れる任務を果した。のみならず、ピタゴラス派の教育において団結の必要なことを十 分に教えていた。フィリッポスは従来からあったヘタイロイの制度を、もっと活用す べきだと考えた。

 そこでフィリッボスは、騎兵の数を増す方針をとるばかりでなく、常置の騎兵部隊を 作って今までの臨時編成にかえた。それを地方別に編成した。軍隊の団結をかたくする には、血縁か地縁かによるのが有利だからである。かくてイリリアと戦った時には (前358年)六百の騎兵、フォキスのオノマルコスと戦った時には(前352年)三千の騎 兵を出すことができた。

 アレクサンドロス大王の頃にはさらに発達して、ガウガメラの戦の時には(前332年)、 へタイロイは八部隊に分れており、各部隊はおよそ三百騎から編成されていた。また アルベラの戦の時には(前331年)、エリミオテス、オレスティス、リンケスティスなど の地方別に組織していたのである。その他に『王の部隊(パジリケイレ)』とよばれる 特別の部隊をつくった。騎兵の中でも一番精鋭な部隊であったといわれるが、単に王護 衛を目的としたものではなかった。

 そのほか楯をもった護衛兵として『王のピパスピテス』という歩兵があった。当時の ギリシアでは他にみられぬものであった。アレクサンドロス大王の頃には、一番美々し い、また一番よい武装をした護衛兵となっている。この他、王の帷幄(いあく)には 七名(後八名)の親衛(ソコト・ヒユノラケス)という者があった。軍の最高幹部で、 毎日、王を護衛するとともに、王の命令をうけ、王に代って指揮をとる統率者で あった。

 第一は国内問題としての豪族の制圧策である。王位継承の紛糾からみてもわかるよう に、豪族の存在はたしかに国内動乱の根本的な禍根をなしていた。旧来の土豪の勢力を 分散するために強硬な疎開方策を断行したのである。例えばオレステス、エリミオテス、 リンケスティスの如きは、アレクサンドロスの頃には、軍の単位をなす一地方と変化し ている。王室に対する国内の一敵国ではなくて、完全に一国の要素としてとけこんでい る姿ではないか。

 第二の問題は新しい貴族武士の設定である。これはフィリッポスの新しい軍制の結果、 従来のような血統による貴族とちがって、王に直属し、王と栄枯を共にすべき新しい武 士として出現した貴族である。従って伝来の土地をもっているわけではない。彼らには 武士として独立してゆけるだけの土地を与える必要があった。即ち論功行賞として新し く土地を配分して、王に服属する新貴族をつくりあげたのである。

 フィリッポスの周囲に集まって王の殊遇をうけた武士は八百人を下らなかった。その 八百人の所領からえられる収益は、これを主のギリシア諸国で、一番富裕な、また最も 広い領土をもっている人々一万人の得分にも匹敵したという。フィリッポスが旧勢力を おさえて、直接自分に奉仕する新貴族を、いかに多く集め、いかに厚く酬いたかという ことが知られる。

 もちろんぺルディッカスとかポリスペルコンなどという武将は昔の名門から出てはい る。しかしそれらも昔の名門として登用されたのではなく、新たにその力量と手腕とに よって直属の武将として用いられたのである。

            統帥部に当る『近衛の将軍(ソマトピニラケス)』は多分フィリッポスの頃に設けら れたと思われるが、アレクサンドロスの時に七人の将軍の名があげられている。その 七人はペラから四名、オセステスから一名、エオルダイアから二名である。


 滝村さんはヘタイロイの制度の変遷に注目する。それは概略次のようにまとめられる。

 いぜんとして<原始的>色彩の濃い素朴な牧畜農耕種族が、<部族国家>的段階から、 相次ぐ戦争と征服によって、政治的・国家的にも社会的・経済的にも急激な変化を遂げて いく様子が読み取れる。つまり、ギリシャ・ローマの場合とは大きく異なり、 <王>直属の軍の中核であり<親衛隊>でありさらには<側近官僚>でもある新しい 政治的・経済的支配層である「新貴族層」が形成されていき、<部族国家的・王>から <王国-内-第三権力>さらには<帝国-内-第三権力>へと急速に自立的転成を遂げ ていった。

 これは、<部族>的共同体の定着によって形成された特異な<地域共同体>的結集にも とずく社会的分業の進展の中から、経済的な支配階級が徐々に形成され、共同体的公 務の実権を徐々に獲得するに到ったものであり、ギリシャ・ローマに代表される<下 からの道>に対して、支配階級形成の<上からの道>を示すものに他ならない。
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