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443 「正義論」は「現実」とどう切り結ぶか(2)
宗教
2006年2月26日(日)


 第4章は「宗教とリベラリズム」と題されているが、宗教にかぎらず、一般的に思想・信条の問題として読むことができるだろう。
 「原初状態」と「無知のヴェール」のもとでの必然的な選択として、人は宗教・思想・信条の自由を認めることになる。


 「原初状態」と「無知のヴェール」の条件のもとでは、いかなる宗教者であっても、無神論の存在を認め、異なる宗教の存在を認め、多神論にならざるをえない。また、信じる神が変わることの可能性も認めるだろう。自分がいったいどんな宗教を信じるかが分からない状態において、また、無神論者になるか、信心家になるかもわからない状態において、宗教も無神論も彼にとっては、併存していなければならないものである。
 つまり、人々が、自分がどのような宗教、思想、信条をもっているかを知らないという条件のもとで、正義の原理を選択するとしたならば、当然に、彼は、その宗教、思想、信条を理由にして、人々が不利益をこうむり、差別をこうむり、あまつさえ投獄され処刑されることを、けっして認めることはないだろう。 この「原初状態」を基盤にしてみれば、私たちは、この社会が、宗教、思想、信条の多数性によって成り立つことを求めるのだ。




 勿論この自由は宗教・思想・信条の内容に関わらない。もしその自由が制限され得るのは自由の名の下においてのみである。つまりその宗教・思想・信条が社会における自由の存続を侵害したときのみである。  このことからロールズの国家論はおのずと次のようになる。


国家とは、この自由の条件を保証する存在であって、それ自体がなんらかの宗教、思想をかかげているものではない。
 彼(ロールズ)にとって、国家はさまざまな価値や思想をもった者たちの連合体なのだ。国家そのものは、この自由の連合体の保証人であるにすぎない。宗教国家がそこでは存在しえないように、民族への忠誠を求めるような民族国家も存在しえない。多民族国家や多人種国家において、一つの人種への忠誠を求めることは、自由の条件への侵害である。そこでは、平等な自由への権利は侵害されている。



 勿論、「多民族国家や多人種国家」だけの問題ではない。一つの偏狭なイデオロギーへの忠誠を求めるイシハラの教育支配の目論みは全面的に否定されなければならない。


言い訳:
 ここまで書いてきた過程で、より詳しく知りたいことや疑問点や新たな課題がいくつかでできました。なによりもロールズに対する理解が不十分です。まずは、ロールズの著作を直接読んでみたいと思い本屋に行き、次の2冊を入手しました。

(1)ジョン・ロールズ著「公正としての正義 再説」(田中成明・亀井洋・平井亮輔訳 岩波書店)
(2)川本隆史著「ロールズ 正義の原理」(講談社)

 (2)はロールズの評伝です。その中に『正義論』は600ページほどの大冊でしかもずいぶんと難解とありました。
 そこで(2)を購入しました。(2)は『正義論』を「説明をよりよいものに改め、多くの誤りを正し、幾つかの有益な修正を加え、そして、若干の比較的共通の反対への返答を示」し、「また、多くの箇所で議論を書き直した」ものということなので私の必要にかなっていると思いました。
 しかし読み始めてみると、ページ数は『正義論』の半分ほどですが、これも相当に難解です。(1)(2)ともに読み終えるのにかなりの時間がかかりそうです。
 ということで、しばらくは「正義論」を中断します。(1)(2)を読み終わった段階で「正義論」に戻る……かどうか、予測できません。

 ともかく、次回からは別の記事を書くことにします。またこれを機会に「反ひのきみ」というテーマに縛られずに、話題を自由に選ぶことにします。



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