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第623回 2006年10月1日(日)



シモーヌ・ヴェイユの神(13)
最後のヴェイユ・匿名の領域


 いま私(たち)の場所からは、たぶん、マルクスやヴェイユの労働概念は修正を要する。 しかし、これは稿を改める問題です。

 マルクスにしてもヴェイユにしても、その思考は一本の道をただひたすら突き詰めていき、 自分をとことんまで追い詰めている。とても真面目すぎてとても窮屈な感じがする。 吉本さんも「もうすこし柔軟で怠惰だったら、資質的に好きな思想のひとつ」という感想を 述べている。そしてその「資質的に好きな思想」の究極を、ヴェイユの「神」の最後の姿を 素描している。


 この世の外側に、つまり空間と時間の外側に、人間の精神的世界の外側に、人間 の諸能力が到達しうるあらゆる領域の外側に、ひとつの実在が存在する。

 この実在にたいして、人間の心の中心につねに位置し、この世のいかなるものも 決してその対象となることのない絶対的善を希求するあの要求が応えるのである。

 この世の中のことのみ人間がかんがえるとき、かならずつきあたる不条理、解決 不能の矛盾を通して、その実在はこの世でもはっきりとその姿を見せる。

 この世の現実が真実の唯一の基礎であるのと同じように、そのもうひとつの実在 は善の唯一の基礎である。

 この世に存在しうるあらゆる善、あらゆる心理、あらゆる正義、あらゆる合理性、 あらゆる秩序、あらゆる場合における人間の行為の義務への従属、これらのものが この世に舞いおりてくるのは、ほかでもなくその実在からなのである。

 善がその実在から舞いおりてくるための唯一の仲介物となるものは、人間の中で その実在にたいする注意力と愛とをもつ人びとである。

 その実在があらゆる人間の能力の遠く及ばないところに位置しているとはいえ、 人間は、この実在へ自己の注意力と愛を向けることができる。

 どのような人間であれ、その人にこのような力が欠けていると想定するいかなる 根拠もない。

(以上、ヴェイユ『ロンドン論集とさいごの手紙』「人間にたいする義務宣言のための試論」 より「信仰告白」の節、杉山毅訳)

 人間だれでも、なんらかの聖なるものがある。しかし、それはその人の人格では ない。それはまた、その人の人間的固有性でもない。きわめて単純に、それは、か れ、その人なのである。

 人格の表出のさまざまの形式であるにすぎない科学、芸術、文学、哲学は、華や かな、輝かしい結果が実を結ぴ、それによっていくつかの名前が数千年にわたって 生きのびる、というある領域を構成している。しかし、この領域を越えて、はるか かなたに、この領域とはひとつの深淵でもって距てられた、もうひとつ別の領域が あり、そこには第一級のものがおかれている。それらのものは本質的に名をもたな い。

 その領域にわけ入った人びとの名前が記録されているか、それとも消失している かは偶然による。たとえ、その名前が記録されているとしても、それらの人びとは 匿名へ入りこんでしまったのである。


(以上、ヴェイユ『ロンドン論集とさいごの手紙』「人格と聖なるもの」より、 杉山毅訳)


 もうひとつヴェイユの考え方に、いまも重要だしこれからも重要だとおもわれるところがあ ります。ヴェイユの言い方をしますと、科学とか、芸術とか、文学とか、哲学とかは全部、人 間の人格のひとつの表現のさまざまな形式をなしている。そのなかにたいへん優れた人がいて、 人類の歴史のはじまりから何千年も名前と業績が伝わっていて、光輝ある仕事だ、業績だとい われている。しかしほんとうはそうじゃないんだ。そういう輝かしい天才たちが何千年も名前 を遺すような仕事と業績の領域のもっと向こう側に、ほんとうに本質的な領域がある。歴史が かんがえてきた領域の向こう側に、ひとつの深淵で距てられた、第一級のものだけが存在する 別の領域がある。その存在する領域は偶然に名前が記録されることもあるかもしれないが、本 質において無名の領域だという言い方をしています。その無名の領域ないしは匿名の領域へ誰 が入ったのかはぜんぜんわからない、と。これは最後になったロンドンでの言葉です。そこが ヴェイユの神学の最後の到達点です。

 そこまで行きますと、ぼくらはこの領域はわからないし、そこまで到達できるとかできない とか、かんがえられるような領域ではないわけです。そこまでかんがえれば、その領域は、キ リスト教の信仰の立場からも、イデオロギーとか思想とかの立場からも、どんな立場からも見 えるんじゃないか。つまり党派の領域でも、宗教の派閥の領域でもなくて、どこからも見える ひとつの領域がかんがえられるのではないかという気がします。ヴェイユの神への考え方は画 一的ではありますが、匿名の領域、無名性の領域で、そここそが(ほんとう)の第一級の場所 なんだという言い方で指しているものは、どこからも見えるといいましょうか、そういう見え 方ができるんじゃないか。誰が集中していってもそこに集中していくということで、一種の普 遍理念とか普遍宗教という領域を、人間はかんがえることができるのではないかという希望を 抱かせます。そこへ行けるとはけっしていいませんが、そういうものが設定できるんじゃない かとおもいます。

 人間の政治社会があれば、かならずそこに対立とか争いがあるということじゃなくて、どこ から見ても、そこが普遍的真理の場所だというものを、わたしたちがかんがえている領域のは るか向こうにもうひとつ設定できるのだというヴェイユの最後の到達点は、たいへんわたした ちに希望を抱かせます。そこはどこから行ってもめざすことができる領域のようにおもえるし、 党派、宗派独特の習慣儀礼に従わなくても、ただいかに真理に近づくかという考えだけがあれ ばそこへ到達できる。不可能だとしても到達可能性がいつでもある。ヴェイユの神学思想とし て生きているほんとうの理由をそこに見たいとおもいます。

 けっしてキリスト教的でもなければ、仏教的でもない、あるいはどちらにも似ているといえ ば似ているし、イデオロギー的であるようで革命思想的でもあるように見える。つまり労働概 念などを見ていると、革命思想的でもあるように見えて、宗教的でもある。そういうことを介 してどこからでも行けるはずだという場所をとにかく指さして見せてくれたことが、ヴェイユ の宗教としての現代性のいちばん大きな場所じゃないかとかんがえます。


つい先日、『甦るヴェイユ』の新書版(MC新書)が出版されました。
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伝聞の伝聞そして電文
何をもって信用できるのでしょうか?

ちなみに340兆円の内訳です


郵貯資金の運用状況(平成18年8月末)『http://www.yu-cho.japanpost.jp/j0000000/ju060800.htm』は以下のとおり。

資産総額 195兆4,368億円(100%)

有価証券 150兆5,576億円(77.0%)
(内訳)
国債 131兆0,209億円(67.0%)
地方債 8兆5,608億円(4.4%)
社債 7兆6,998億円(3.9%)、うち公庫公団債等 5兆0,069億円(2.6%)
外国債 3兆2,759億円(1.7%)

金銭の信託 2兆6,584億円(1.4%)

貸付金 4兆4,289億円(2.3%)
(内訳)
地方公共団体貸付 3兆7,238億円(1.9%)
預金者貸付等 3,760億円(0.2%)
郵便業務への融通 3,290億円(0.2%)

預金等 2兆9,818億円(1.5%)

預託金 34兆8,100億円(17.8%)


簡易保険の資金運用状況(平成18年8月末)『http://www.kampo.japanpost.jp/osirase/report/unyou/unyou0608.html』は以下のとおり。

資産総額 117兆5,995億円(100%)

有価証券 85兆0,428億円(72.3%)
(内訳)
国債 62兆9,980億円(53.6%)
地方債 4兆4,537億円(3.8%)
社債 15兆5,532億円(13.2%)、うち公庫公団債等12兆9,841億円(11.0%)
外国債 2兆0,378億円(1.7%)

金銭の信託 8兆2,530億円(7.0%)

貸付金 23兆0,426億円(19.6%)
(内訳)
地方公共団体貸付 19兆5,584億円(16.6%)
公庫公団等貸付 1兆4,257億円(1.2%)
保険契約者貸付 1兆9,107億円(1.6%)
郵便業務への融通 1,478億円(0.1%)

預金等 1兆2,609億円(1.1%



とあり、日本郵政公社の公式発表が嘘であると言う事でしょうか?



もしこれが本当なら、民主党が飛びつきそうなネタですね。
それとも第2の永田メールとなるかな(笑)
2006/10/03(火) 00:28 | URL | cynic #u47rRsU6[ 編集]
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