FC2ブログ
2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
622 シモーヌ・ヴェイユの神(12)
最後のヴェイユ・「労働」と「死」
2006年9月30日(土)


 ヴェイユは最後まで「労働(肉体労働)」という概念を突き詰めて考えていた。 それは初期からの概念つまりマルクスの考え方の拡張だった。

 マルクスの「労働」概念のおさらい

 マルクスは、じぶん以外の対象にたいする働きかけをひろい意味での労働と かんがえる。その労働は対象の方から、働きかけた人間の方へも、反作用とし て働きかけがある。
 たとえば、その人が肉体的に働きかけていくとその人は機械とおなじ、つま り生きていない無生物とおなじようにただ相手に働きかける作業だけの人間に その瞬間はなっているとかんがえていい。そういう相互作用がある。

 さらにマルクスは、労働は働きかけた対象を価値物に転化すると考える。 狭い概念でいえば、「こういうものを作ったらこ れは価値ある商品になる」ということだ。ひろい意味でとれば、人間が 人間以外の対象物に働きかけた瞬間から、働きかけた対象物はすべて 価値物に転化するということになる。マルクスの考え方でいちばん重要な点だ。

 マルクスの「労働」についてのこの考えは徹底している。

家事労働とはなにか。
 家族の働き手が、あしたも今日とおなじように職場に行って働いて不都合が ないというそういう栄養物を補給するのがいい家庭ということになる。その ために主婦がものを作るということはけっして無価値でもないし、奴隷労働 でもない。働き手の価値増殖に寄与していることになり、それは価値労働 だと言う。

消費とはなにか。
 消費とは遅延された生産であるというのがマルクスの考え方になる。 つまり、いまこれを作ったのだが、これが回り回ってどこかで売られて、それ をまた買って役立てることによって、またあした仕事するという、そういうこ とでいえば、消費とは遅れた生産ということになる。



 さて、晩年のヴェイユは「労働」について次のように述べている。


 人間は服従のそとに出てしまった。神は刑罰として労働と死を選んだ。した がって労働と死は、人間が同意によってそれを受け容れるとき、神への服従と いう最高善のなかに移行することを意味する。

 天上において死の神秘的な意味がいかなるものであれ、この世における死 は、わななく肉体と思念とからなる存在、のぞみ、憎み、希望し、怖れ、欲し、 拒否する存在が、物質の小さな堆積に変貌することである。
 この変貌への同意は、人間にとって完全なる服従の至高の行為である。

 しかし死への同意は、死がそこに存在するときにしか完全に現実のものにな ることはできない。それはまた、死が近くにあるときにしか完全さに近づくこ とはできない。死の可能性が抽象的なかたちで遠くにあるとき、同意もまた 抽象的である。
 肉体労働は毎日の死である。

 死と労働は必然に属する事象であって、選択に属する事象ではない。 宇宙が人間に糧として与えろれるのは、その人間が労力として宇宙におのれを 与えるときのみである。しかしながら、死と労働とは反抗のうちに受け容れら れることもあれば、同意のうちに受け容れられることもある。その赤裸々な真 実のうちに受け容れられることもあれば、虚言に包まれたかたちで受け容れら れることもある。

 よく秩序立てられた社会生活のなかで肉体労働が占めるべき位置を決定する ことは容易である。肉体労働は社会生活の霊的中心でなければならない。


(以上、ヴェイユ『根をもつこと』山崎庸一郎訳)

 ヴェイユは「神」や「死」を語り、それをじぶんの思想の根においた。それ はふるめかしいカトリック僧院の僧侶の像に似ていないでもない。でもヴェイ ユは僧院とは別のところにいる。たとえばヴェイユは「労働」という概念に、 最後まで固執している。ヴェイユのいう「労働」はあくまでも貸労働のこと で、僧院のなかの無償の奉仕の労働や、福祉としてのボランティアの労働では ない。これは大切なことだ。

 言葉にあらわしていないが、いちばんはじめに人間が神にたいする服従の そとにでられることをしめして人間的な倫理の矛盾を武器に神に抗弁し、神 の不公正をなじってみせた旧約の偉大な受難者は『ヨブ記』のヨブだった。 この個所にはヴェイユのヨブにたいする深い共感がかくされている。

 ヴェイユによって賃労働が「死」の自己同等として導き入れられている。 『ヨブ記』のヨブによって神への服従のそとにでてしまった人間が、神と 和解し、服従できるのは労働と死のほかにないからだ。それがヴェイユの真意 とおもえる。

 するとヴェイユの神学は、にわかに天上との対話の意味から地 上の社会生活のなかにおりてくる姿がみえる。ほんとはそれといっしょに 賃労働の意味が、ほんのすこしばかり変貌して、対象への人間の普遍的な行為 という意味をおびてくるというべきだ。それはマルクスの賃労働が、哲学の 概念としてあらわれるとき、対象にたいする行為一般の貌をおびてくるのと、 とてもよく似ている。

 なぜそうなるかといえば人間の対象にたいする行為は、 同時に対象からじぶんの意識が規定をうけとる行為であるか、じぶんの意 識が対象に規定を与える行為であるか、そのどちらかを含むものだからだ。 そこで特殊な具体的な行為(賃労働)といえども普遍的な行為という内面を あらわさざるをえない。

 ヴェイユもマルクスとおなじように、人間の特殊な具体的な行為にすぎな い<賃>労働のなかに、人間が「意志」してせざるをえない行為をみようと した。そしてこの「意志」をヴェイユは、人間としては刑罰であり、天上的 には「神への服従」(摂理への服従)とみなそうとした。

 ヴェイユはそれを「最高善」という倒錯した概念であらわしているが、わ たしたちがそれを「最高悪」と読みかえても、すこしも訂正はいらないよう にできている。つまりヴェイユのなかにはその両義性がひそんでいる。

 ほんとに「死と労働とは反抗のうちに受け容れられることもあれば、同意の うちに受け容れられることもある」が、それは「死」と「労働」そのものに 第一原因があるので、人間の行為のなかに原因があるのではない。

 ヴェイユは「肉体労働は毎日の死である」といっている。だが厳密にはそ うではなさそうだ。「死」と「労働」とが関連をうけとるのは、人間がそれ を自己(内)対象にしたときだ。じぶんの対象としての「死」は、じぶんの 消滅としてあらわれるが、じぶんの対象としての「労働」は極限まで消費さ れたじぶんの消耗、つまり疲労としてあらわれるまでだ。このふたつはおな じではない。肉体労働が死であるばあい、それは一日だけでおわってしまい 「毎日」繰返されることはいらない。

 もちろんヴェイユは「死」という言葉を比喩としてつかっているのではな い。まったく肉体的な死をさしているのだ。それは「わななく肉体と思念と からなる存在」「のぞみ、憎み、希望し、怖れ、欲し、拒否する存在」が 「物質の小さな堆積」に変貌することが「死」だといっていることからもわ かる。

 この変貌に同意することは、ヴェイユによれば摂理としての自然(「神」) のうけいれ(「服従」)であり、「至高の行為」だとのべている。だがここで も「最低の行為」だといっても文脈はひとつもうごかす必要がないように語ら れている。これがヴェイユの「神」の両義性だった。



 わたしたちはヴェイユの興味ぶかい表現にぶつかる。「宇宙が人間に糧と して与えられるのは、その人間が労力として宇宙におのれを与えるときのみ である。」というのがそれだ。

 ヴェイユのかつての思想的なちかくにいて、すれちがってしまったバタ イユは、たしか『呪われた部分』で逆のことをいっている。この宇宙で地球 上の生体にエネルギーを与えているのは太陽だけであり、地上の生命も人間 の生産も、そのための労働も、結果である商品も、すべての消費とおなじよ うに、ただ太陽エネルギーを消費する行為だ、というように。

 ヴェイユは神学であり、バタイユは普遍経済学であり、ふたつはただ思惟 の方向だけがちがっている。
スポンサーサイト



 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/636-d2d45309
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック