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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
621 シモーヌ・ヴェイユの神(11)
ヴェイユの触神・見神体験(3)
2006年9月29日(金)


 ヴェイユが、繰り返し襲う激痛(頭痛)を軸に神を語るとき、それは私に日常に埋没して すっかり忘れているいるシビアな倫理の問題を思い出させる。


神への愛と不幸

 不幸は生命が根こそぎにされることであり、多少とも軽減された死に等しいものであ り、肉体の苦痛に触れるか、直接それを恐れるかによって、どうしても魂に現存する ものとなる。

 肉体の苦痛が全然なければ、魂の不幸はない。なぜなら思考がどんな対 象にでも向って行くからだ。思考は動物が死から逃げるのと同じように速く、同じよ うにおさえがたく、不幸から逃げる。この世で思考をつなぎとめることができるのは 肉体の苦痛だけで、ほかにはない。ただしこの場合、記述がむずかしいけれど、肉体 の苦痛と厳密に同等ないくつかの現象は、肉体の苦痛の中に入れて考えている。肉体 の苦痛に対する恐れはそういうものの一つである。

 思考が肉体の苦痛にしいられて、その苦痛は軽いものであっても、それによって不 幸の現在をみとめるときには、死刑囚が自分の首を切るギロチンを何時間もながめる ことを強いられているのと同じようにひどい状態になる。人間はこのひどい状態で二 十年も、五十年も生きることができる。ほかの人はそれと気づかずに、不幸な人々の そばを通っている。キリスト自身がだれかの目を通してそれを見るのでなければ、だ れが不幸な人々を識別できよう。ただ、彼らがときどきへんな素振りをすることが あって、人はそういう素振りを非難している。

 ある生命をとらえて根こそぎにしたできごとが、直接にか、社会的、真理的、肉体的、 にその生命のすべての部分に達していなければ、本当の不幸はない。社会的な因子は 本質的なものだ。何かの形で社会的な堕落かその心配がなければ、本当の不幸はない。



 不幸におちいると、キリストも免れることを願い、人々の間になぐさめを求め、父 なる神に棄てられたと信じないではいられなかった。不幸におちいると、義人も神に 反抗の叫びをあげないではいられなかった。ヨブは単なる人性にともなうかぎりもっ とも完全な義人であり、歴史的な人物であるよりもキリストのかたどりであるとすれ ば、それ以上に完全な義人なのだ。

 「彼は罪のない人々の不幸を笑う。」これは冒涜で はない。これは苦痛からしぼり出された本当の叫びなのだ。「ヨブ記」ははじめから 終りまで真実と真正の純粋な素晴しさである。このモデルからはなれた不幸について の言葉は、すべて多少ともうそで汚れている。

  (シモーヌ・ヴェイユ『神を待ちのぞむ』渡辺秀訳)


 慰めのない<不幸>とか、絶対的な<絶望>をとおして しか人間は神に近づけないのだ、それ以外の近づき方をしようとしたり、 したつもりになっているのは全部うそだ、それは<うそ>の感情と<うそ>の信仰、<うそ>の 神なんだとヴエイユは言っている。ここで私(たち)は、肉体的な苦痛に限らず、あらゆる人間的な 苦痛や不幸や悪やさらには死の問題に対峙させられている。私(たち)は私(たち)の苦痛や不幸 や悪や死とどのように立ち向かい、どのように対処すべきなのか、あるいはその問題には どのような解決があり得るのか。

 人間の重力(*注)の圏外にある神あるいは神の恩寵は善なるものにきまっているから、善な るものに接近するには、人間が<悪>であるばあい以外、あるいは<悪>の報いであるところの 不幸とか死とか苦痛とか以外に近づく術がないんだ、そういうところに神は存在しているという のがヴェイユ独特の考え方であるし、ものすごく徹底した考え方だといえます。

 このへんまでくると、ヴェイユの考え方は日本の中世の浄土系の宗教家の考えに著しく似て きます。たとえば親鸞が、「善人なほもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」と言います。善人 が浄土に往けるというんだから、悪人ならなおさら往けるんだ、という言い方を親鸞はしてい ますが、ヴェイユの考えはそれに近づいている。

 不幸とか、死とかに関連していえば、あらゆる現世にたいする執着を断ち切ってしまわなけれ ば、絶対に神あるいは神の恩寵には到達しないという考え方をヴェイユは述べています。現世に ある執着を全部取っ払ってみずから慰めようのない不幸といいましょうか苦痛にじぶんをおくと、 はじめて筆舌に尽くしがたい慰めが、つまり恩寵の慰めが向こうからやってくるということがあり うるという言い方をしています。この考え方は法然、親鸞じゃなくて一遍の考えに著しく近いとい えます。

 ヴェイユの神学、神の考え方は、ぼくにはある意味でわかりやすい考え方に近いですし、 神学的にいうとあらゆるキリスト教的な信仰にたいして全部アンチテーゼである。そういうところ からいきおい人間の根源の倫理といいましょうか、原則が出てくるのですが、ヴェイユが強調して やまないところは、じぶんがそうと思わないことは絶対にするなということです。じぶんがそうと 思える範囲内でしか行為をすべきでなく、もしこれを超えて行為するとかならずまちがえるから、 人間の必然的にそうだと思える範囲内にじぶんの行為を留めおくべきだ。それを留めないで、 なにかちがうものをもって、それ以上のことをしようと思ったり、しようとしたらかならずまち がった神に到達してしまうという言い方をしています。人間の倫理をつくるのは必然の行為だ けであって、必然性のない行為は人間の行為の倫理的基準にならないというのが、ヴェイユの 倫理にたいするいちばん根本的な考え方だとおもいます。


(*注)ヴェイユ神学における「重力」について
 一般的に物というものは重力の作用を受けている。人間の肉体も重力の作用を受けている。それ とおなじように、人間の精神も重力の作用を受けているとヴェイユは言う。

 人間の精神も重力の作用を受けているので、人間の精神作用は人間相互のあいだでも、じぶん 個人としても、どんどん下の方つまり低俗な方へ低俗な方へいくようにできている。

 それでは、重力の作用を受けない精神作用はあるのか。ただひとつだけある。それは神の「恩寵」 だ。神の恩寵だけが重力の作用を受けていない。たとえて言えば、重力に対応してそれは光であり、 それだけが人間の精神作用とちがって重力の作用の圏外にある、とヴェイユは考えている。
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