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619 「ほんとうの考え・うその考え」―シモーヌ・ヴェイユの神(10)
ヴェイユの触神・見神体験(2)
2006年9月26日(火)


 ヴェイユの触神・見神体験では持病の頭痛の発作が重要な契機になってい る。そして、この<慢性の肉体的苦痛>がヴェイユの神学の独自性の根源になって いる。

 <慢性の肉体的苦痛>は、たんにその都度の肉体の苦痛とまったくちが う、とヴェイユはいっている。それは根源的な不幸のひとつなのだ。ヴェイユ の言葉でいえば、<生命が根こぎにされる不幸>にほかならない。そして <生命が根こぎにされる不幸>は、不幸という概念をテコに、肉体的なところ からはじまって「精神にも、社会にもおしひろげられ、徹底してゆく。不幸な 魂の状態によって、人間のかんがえはピンでとめられて、遠くまで行けなく なってしまう。逆にいえば、生命が根こぎにされることの根源的な不幸にふ れえないような不幸は、ほんとの不幸とはいえないというかんがえにヴェイユ はたどりつく。

(中略)

 キリストもまた十字架にかけられ、苦しみにさらされ、不幸におちいったと き「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わたしの神よ、わたしの神よ、どうし てわたしを見棄てたのか)と神を呪う言葉を発せずにはおられないほどだっ た。不幸におちいったときはだれでも神に反抗の叫びをあげないではいられな いものだ、とヴェイユはいう。

 だがヴェイユの神学はここからすべての神学とちがっていく。彼女は 『ヨブ記』のヨブの言葉を掘りおこしている。


   わたしの方が正しくてもわたしには答えられない。わたしはわたしの審判者 に懇願するほかにない。そしてわたしが彼(神)を求めたのに彼が応えてく れるとしても、わたしの声を聴きとどけたのだとは、わたしは信じない。 彼は嵐のようにわたしを襲い、理由もなくわたしに沢山の傷を負わせ、わ たしに息つくゆとりさえあたえず、過酷さをくわえて飽くことを知らない。

 腕力に訴えるのか。それならかれは全能だ。裁きをか。誰かわたしを出頭 させることができようか。たとえわたしが正しくても、わたしの口はじぷん を咎めるだろう。たとえわたしが潔白だとしても、わたしはじぷんを罪あり とみなすだろう。

 潔白! わたしはそれを追いもとめる。だがわたしは生命に執着しない。 わたしはじぷんの存在を侮蔑する。ようするにどうでもいいのか? なぜか ならわたしは敢えてかれに言う。かれ(神)は潔白な者も罪ある者も等しな みに打ち砕いてしまう。災禍がやってきて突然死をもたらしても彼(神)は 潔白な者の受難を笑っている。(『ヨブ記』9の15-23)

 ヴェイユによれば、『ヨブ記』のヨプが、キリストよりまえの、より偉大な 義の人の原型だとすれば、苦痛や不幸におちこんだときに彼(神)にむかっ て、なぜわたしを見棄てるのかと嘆かずに、彼(神)が「潔白な者」も「罪あ る者」も、ひとしなみに滅ぼしてしまうし、潔白な者が苦痛(不幸)におち いっても、笑っている本質を、よく熟知しているからだ。そして嘆くまえに ヨブは神の不公正に肉迫しようとして知らずしらず人間を至上とする倫理の 地平から神にたいし抗弁につとめている。これが旧約の神をやぶる最初の人 間的な異議の声であり、ヨプはその象徴になる。

  「苦痛」、「苦難」、「不幸」のおかれた苛酷な位置をわきまえないよう な「不幸」についての言説はうそだ。うその「不幸」に根拠をおいた神学も またまやかしだ。ヴェイユが肉体の苦痛(繰返しおそってくる頭痛)の直接 体験から導きだしたかぎりでの、これが神学的な理念のようにみえる。

  ヴェイユはここで旧約的な「神」を「自然」と同義に改めている。 神にか わる「自然」は不幸なものも、そうでないものも、ひとしなみに危難にさら し、うちのめすことがある。そういっても、ヴェイユののべているところは かわらない。そして「自然」は人間によってさまざまな綾をつけられ、飾られ、また 勝手におもいこまれる。そこではじめて「潔白な者」と「罪ある者」という 概念が問題になってくる。ヨプのような「潔白な者」もなお「罪ある者」と ひとしなみに「自然」は容赦なく打ちのめす。そうだとすればこの「自然」 は意志をもった「自然」とかんがえられるべきではないのか。ヴェイユが 「神」というとき、この意志をもった「自然」にはなはだ近いものをさし ている。

 だがここからがヴェイユの「神」の特異 さになってゆく。もっと意志のある「自然」は肉体のかたちをもち、人格を えて、感覚によってふれられるものになり、そのはてに性を与えられたと ころに、ヴェイユの「神」はじっさいにヴェイユの眼前に姿をあらわしたと いえばよいとおもえる。

 私はここでまた「第542回 2006年7月3日」で考えたことを思い出す。 そこで私は次のように書いた。

 大川隆法の神(仏)観の「神」を「自然」と置き換えて少し言い直してみる。

「自然とは、私たち以外の別のところにある他者ではなく、私たちを存在せしめ ているところのひとつの高次の摂理なのです」

「私たちは、自分自身が自然の一部であり、自然の自己表現の一端をになってい ることに、生き方や思想の根拠を置くべきなのです」

 これはもう宗教的な理念ではなく科学的な理念だ。全ての宗教を包含する「普遍 宗教」というものがあるとすれば、その宗教の神は自然にほかならないのではない か。地上から浮遊してさまよい続けた挙句、霊(こころ)は本来のあるべきとこ ろ、この地上に戻ってくる。神秘めかした言説を一片なりとも必要としない。



 ヴェイユの「神」が「自然」と同義だとしても、ヴェイユの神学の根底には自ら の触神・見神体験が厳としてあるから、その自然は「意志をもった自然」であり、「肉体の かたちをもち、人格をえて、感覚によってふれられるものになり、そのはてに 性を与えられた」神として結実していった。つまり『頭痛のきわみで体験した 心の肉体離脱や触神・見神のような入眠体験を神への信にまで煮詰め、理念づ けた結果』がヴェイユの「神=意志をもった自然だった。
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