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616 「ほんとうの考え・うその考え」―シモーヌ・ヴェイユの神(9)
ヴェイユの触神・見神体験(1)
2006年9月23日(土)


(テーマ「ほんとうの考え・うその考え」に戻ります。)

 ヴェイユが晩年、キリスト教神学の思想に近づいていくことになる伏線は工場体験の中にもあったが、 工場体験で健康を害して休職していた時に行った旅行における各地での見聞もその一つだった。
 小さな漁村に行ったとき、灯りを持った敬虔な漁師の女たちが小舟を取り囲んでお祈りをしている光景に 出会った。それは土着的な宗教のようにも思えるし、キリスト教の信仰そのも ののようにも思えた。 ヴェイユはその漁師の女たちの祈りを見て、キリスト教は奴隷の宗教ではな いか、虐げられた者の宗教ではないかとあらためて感じたりしている。

 キリスト教神学に近づく決定的な触神体験・見神体験が聖フランチェスコゆかりのソレムの修道院の小さな聖堂 に行ったときに起こった。そこでの祈りに形だけの参加をしているとき、頭が猛烈に痛くなり、それを 我慢しているうちに頭が痛い自分が自分から遊離していって、朦朧とした状態 になる。その朦朧状態 のなかで、ヴェイユはキリストが自分のところに来て自分に触れたという 体験をする。

 ヴェイユは科学的な思考の訓練をつんでいる人だから、そういう体験には懐疑的だし、聖女たちのそういう 伝説にも疑いをもっていたが、じぶんで予期しなかった触神と見神を体験したとき、その如実感と存在感 だけはすこしも疑えない心の「事実」だと思った。しかし、こういった体験に対する慎重な態度 が全くなくなってしまったわけではない。

 たとえば、キリストは自身よりも人間が真理の方を選ぶのをが好むから、人間が 真理の方へゆくことでキリストをそれてしまうことがあっても、「長く行かな いうちにキリストの御手にいだかれるでしょう」と述べている。つまり、 信仰は迂回路をとって結果的にやってくるものだと、生涯にわたって考えてい た。あるいはまた、カトリックの神父からの入信の勧めにたいしても、じぶん がどこかの教会に属したほうがいいんだという考え方を示唆されたり、啓示さ れたりしたことはないから、教会の外にいたほうがいいんだといって入信を断 りつづけている。
 ヴェイユはそのような立場を貫きながら、じぶん独特の神学を形成していった。

 (ヴェイユは信仰について)群れに囲まれて外濠をうめてしまえば、ひとりでにその状態が自然のよう におもえるものだ、というかんがえにとりこまれていない。これはヴェイユの思想のうちでとても重要な ものだ。

  信仰者やイデオロジストの群れにいるものが、「信」を「不信」よりも上位なものとおもいちがえて、 知らずしらず創造や懐疑の努力を一切すてて、じぶんは何者でもないのに、ひとをみくだした与太話に ふけりはじめる。その瞬間から一切の「信」は滅亡にむかう。ヴェイユほこの「信」と「不信」の弁証法 を徹底してつきつめている。宗教や理念では「信」は「不信」よりも下位にあるものだとしらない「信」 は、すべて無意義か、無意味にむかっているのだ。ヴェイユは、それをまぬがれるまでつきつめている。

 この触神・見神体験でヴェイユが決定的に変貌していったことも 事実であり、それはヴェイユの専門的な知識の理解の仕方の上にも現れている。

 ところでこの触神と見神の体験で、ヴェイユが決定的に変貌したこともたしかだっ た。それをヴェイユ自身のいうところにそっていってみれば、プラトンは神秘家(キ リスト教的な)になり、『イーリアス』は全体がキリスト教的な叙事詩としてみえ、 ディオニュソスはキリスト自身であると感ずるようになる。ヴェイユは専門的な知識 として肉化していたギリシャ神話や、哲学や、叙事詩の登場人物や、作者や、物語を、 ことごとくじぶんのキリストとの接触感覚や見神感覚に融けこませて、 キリスト教的なプラズマ状態にしてしまったことになる。
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