2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
611 「ほんとうの考え・うその考え」―シモーヌ・ヴェイユの神(6)
工場体験(2)
2006年9月18日(月)


 ヴェイユの工場体験談に対する吉本さんの論考を抜書きする。

(1.2.3.について)

 学生や教師の時期にいだいていた尊厳という感情や、自尊心がよりどころにしていた外からの理由は、まえには形而上学的な根拠があるとおもいちがえていたが、毎日つづくひどい拘束時間の労働を二、三週間体験しただけで、根こそぎくずれてしまった。
 あれはおなじような身分と知識と境遇にあるものの黙契でできあがった尊厳や自尊心にすぎない。工場の作業場にあるのはまったく逆のドレイ状態だけだ。そしてそれはスピードと命令からできている。まもれるのは生命だけだ。

 すでにのべたように、ヴェイユには労働がこまかく高度に分化している状態を肯定するか否定するかが根本にある問題のようにみえた。そこでは機械になるのが最上のしのぎ方になるから知能を働かせずに、ますますかんがえなくなるとすれば、こまかく分化された場面に密着するあまり、全体の視野は欠けおちてしまうのだ。

(中略)

 ヴェイユは泣き言をいっているだけではなくてみるべきものはみているからだ。たとえばおなじ工場でもちょっと場所がかわっただけで地獄と極楽のようにちがうことも、きちっとみているし、同僚や上司にめぐまれただけで職場が地獄と極楽ほどにもちがってしまうことも洞察している。

 こういったヴェイユの感想は新鮮だった。また逆に誰でも労働者ならやっていることなのに、学校と学問しかしらないものが、急ごしらえで工場へでてきて疲労と拘束時間のつらさと機械的な作業のぶっつづけに、ゆとりをなくして悲鳴をあげているだけだともうけとれる。支配と被支配、あるいは管理と被管理がもたらす苦痛と、人格の善や悪が人間関係にもたらす苦痛とはおなじではない。

 ヴェイユはそれをよく知っていたとおもえる。またこれを知っていることは、ヴェイユを神学に近づけた契機をはらんでいたといえなくはない。

 「ひとつのほほ笑み」「一言の善意」 「一瞬の人間的接触」が特権的な人々との献身的な友情にまさる価値をもつことがあるとヴェイユはいっている。わたしたちの感受性にはいくつかの層があって、誰もが「ひとつのほほ笑み」 「一言の善意」 「一瞬の人間的接触」 で融和する感情の層をもっている。ヴェイユにとってそれは倫理にむすびつけられるものだった。

 
何よりも低いこと‥特権のないこと、それはそのことだけで善だとみなされる。だから高い地位はものを理解するのに都合がわるい。低い地位は行動するのに都合がわるい。そんな制約は支配と被支配、管理と被管理からやってくると彼女はかんがえた。 管理ということは 「機械的な動作と仕事のテンポのスピードを予め決定されている」ことだ。これはヴェイユに恐怖を与えている。これに狎れてしまうことは、労働をデカダンスにおとしいれるだけでなく、生命をやせほそらせてしまう。

 受け身の服従という習性を労働者がもっているかぎり、労働者革命が詐称されても革命が労働者自身のものであることはありえない 。「労働者革命」「ファシズム」「国家防衛の組織化」 これを呼号する党派はどれも「隷属と依存」「戦争」をよるべき二つの因子にしている。 ヴェイユの人格的な倫理は当然のようにここにゆきついた。

 
現在進行中の日本ネオファシズムによる反動も当然ながら『「隷属と依存」「戦争」をよるべき二つの因子』としている。日の丸君が代の強制、教育基本法の改悪のいきつくところが「隷属と依存」であり、憲法改悪のいきつくところが「戦争」であることは言うまでもないだろう。

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