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610 「ほんとうの考え・うその考え」―シモーヌ・ヴェイユの神(5)
工場体験(1)
2006年9月16日(土)


1934年(25才)~1935年8月。 
  文部省に「個人的研究」のため教職の休暇申請を提出し許可される。申請理由は「重工業の基礎である現代技術と、現代文明の基本的諸相、つまり一方で現代の社会組織、他方では現代文化との関係に関する哲学の学位論文を準備したい」とあった。

 ヴェイユは一介の女子工員として工場に入り、三つの工場を転々とする。12月4日アルストン社にプレス工として入社、まもなく退職。カルノ-工場のプレス工、翌月解雇。最後はルノ-工場のフライス工。

 工場で働くことは10年ほど前から考えていたことだと、ヴェイユは友人への手紙で書いている。しかしまた、全ての革命についての思想に絶望したあげくの代償行為だったとも考えられる。たぶん、ほんとうに工場に入って工員という肉体労働をする人がどういうことになっているのか、じぶんで確かめたいというモチーフがあったと思われる。

 まず、ヴェイユが書きとめた工場体験の記録を読んでみよう。

 以下は全て『甦えるヴェイユ』からの孫引きです。また、この数年の間に私(たち)耳目に入ってきている現在の日本の労働者の状況と同じではないかと思われる部分を色文字で強調した。この国の労働条件は70年ほど前のフランス(当時の日本はもっとひどかったかもしれない)にタイムスリップしてしまったようだ。


 働きながら、きつい労働だとつくづく思いました。夕方四時に、職工長が、八百個仕上げられなければ私を解雇する、といいにきました。「あんたがいまから八百できるなら、わしもあんたを置いとくことに《たぶん、同意するだろうよ》」というのです。おわかりでしょう、われわれが働きすぎて死んでしまうかも知れないというのに、むこうは恩恵を施したつもりなのです。だから、お礼をいわなければなりません。全力をつくしても、やっと一時間六百個に漕ぎつけるのが関の山でした。 にもかかわらず、今朝も、仕事を奪われないですみました (連中は女工不足なのです。なぜなら、職場の環境が悪すぎるので就業者が安定しない事情があるのに、軍備のための緊急発注に追われているのですから)。

 私はさらに一時間、いっそう力をふり絞ってこの仕事をつづけ、六百五十個以上を仕上げました。さまざまなほかの仕事が与えられましたが、命令はいつもおなじで、つまり、フル・スピードでやれ、ということでした。

 毎日九時間のあいだ (というのは、前にあなたにいったように午後一時十五分にではなく、午後一時に〔昼食〕に帰ることになっているから
です)女工たちはこんな具合に働くのですが、文字どおり一分の猶予もありません。

 仕事を変えたり、別の工場を探してみたりしても、仕事に追いまくられることには変わりありません。

 (中略)

 昨日の夕刻、終業になると、私はあなたが想像されるような状態に落ちいりました(幸いなことに頭痛の方は小休止でした)。だから、更衣所で、女工たちがまだお喋りをする余裕をもっており、私の方は胸いっぱいの怒りに燃えているのに彼女たちにはそんな気持が心中にあるようにも見えないことに、私はびっくりさせられました。

(中略)

 逆に流れ作業のある女性は、― 私は彼女といっしょに市街電車で帰ったのですが ― 数年もすると、あるいは一年もすると、自分がいよいよ愚かになるばかりだと思いつづけることはあるが、もう苦しまないようになる、と私にいいました。私にはこれこそ堕落の最終段階であるようにおもえるのです。彼女は自分や自分の同僚たちがどのようにしてこのような隷属に甘んずるに至ったか、説明してくれました。「七〇フランもらえたら、どんなことでも引受けて、くたばっちまっていることだろうね」と。いまでも一部の女工たちは、絶対に必要だというわけでもないのに、流れ作業で時間あたり四フランと諸手当をもらってよろこんでいます。

 そのような高賃金時代に、労働運動ないしはそう自称する運動の指導者のなかでいったい誰が、労働者階級は堕落させられ、腐敗させられつつあると考えたり、いったりする勇気をもったでしょうか? たしかに労働者たちが自分たちの運命を招いたのだといえます。つまり、責任だけは集団的だが、苦しみは個人的、という風潮が生まれたことです。まともな心をもち合わせている人であれば、こんな仕組みにおちこんだら血の涙を流すにちがいありません。(ヴェイユ「ボリス・スヴァーリスへの手紙」根本長兵衛訳)


 大きな炉の前にいる私を想像してください。炉は炎と灼熱した風とを外に吐き出し、私はそれを顔いっぱいに受けるのです。火は炉の下部にある五つ六つの穴から出てきます。私はまっ正面に立って、勇敢であけっぴろげな顔をした一人のイタリア人の女工が私の横で作っている三十個ほどの大きな銅の巻き枠を、炉のなかに入れるのです。私は巻き枠が一つでも穴のどれかに落ちないように、よくよく注意しなければなりません。落ちれば溶けてしまうでしょうから。そのためには、私は炉のま
っ正面に立たねはならず、しかも顔にかかる燃え立つような風や腕にかかる火の苦しみで (私はまだその痕をとどめています)、けっしてまちがった動作をしてはならないのです。私は炉の蓋をおろし、しばらく待ち、蓋を上げ、赤くなった巻き枠を鈎で引き出すのですが、それもさっとすばやく自分の方へ引き寄せるようにし (そうしなければ、あとの方で出すものは溶けはじめるでしょう)、どんなときにも動作をあやまって巻き枠の一つを穴のどれかに落としたりしないように、前に倍する注意を払います。それからまた、おなじことがはじまります。

 私の前に、青い眼鏡をかけ、重々しい顔をした溶接工が、腰をおろして、丹念に働いています。私が苦痛に顔を歪めるたびに、彼は私に友愛のこもった共感でいっぱいの悲しげなほほ笑みを送ってよこし、それが私には言い難いよいものになるのです。向う側には、一組のボイラー製造工が大きなテーブルを並べたまわりで働いています。組みになって、心を合わせて、注意深く、せかず急がず仕上げられる仕事で、計算したり、大変複雑な図面を読んだり、画法幾何学のいろいろな概念を適用したりすることができなければならない、大変に熟練を要する仕事です。その向うでは、がっしりした体の男が、頭のわれんばかりの音をたてながら、鉄の棒を大鎚で打っています。

 これらすべては、仕事場の末端の一隅でのこと、そこで人々はわが家にいると感じています。いうなれば、ここには組長も、職工長も、けっしてやってこないのです。私はそこで四回にわたって二三時間を過ごしました (それで一時間七フランから八フランを稼いでいました ― これが大変なことです、これが、ね!)。

 初回は、一時間半たつと、熱と疲れと苦痛とで、私は自分の動作を制御できなくなりました。もう炉の蓋をおろすことができませんでした。それを見ると、すぐにボイラー製造工の一人が (みんなすてきな連中) とんできて、かわりにやってくれました。もしできることなら (少なくともまた自分に力を見つけたらすぐに)、私はあの仕事場のささやかな一隅にただちにもどることでしょう。あの頃の晩は、私は稼いだパンを食べるよろこびを感じていました。 しかし、こういうことは私の工場生活の経験中唯一のことでした。(ヴェイユ「アル ベルチーヌ・テヴノン夫人宛の手紙(三)」1935年、橋本一明訳)


 疲労。耐え難く、つらい、ときには死が願わしいばかりに苦痛にみちた疲労。だれでもがありとあらゆる境遇で疲れることの何たるかは知っているが、この疲労には特別な名前が必要だろう。男盛りの強健な男たちが、疲労のあまり地下鉄の坐席で眠りこけてしまうのだ。何かつらい仕事があったというわけではなも、平常の一日の労働が終わっただけでそうなってしまう。その一日は、明日も明後日もつねにくり返される当り前の一日であるにすぎない。終業後、地下鉄に乗ると、はげしい不安で頭がいっぱいになる。私は空席を見つけられるだろうか? 立っていなければならぬとしたら、あまりにもつらすぎることだろう。けれども、しょっちゅう立っていなければならない。その場合は過度の疲労で眠れなくならぬよう注意が肝要! 明日は、さらにもう少し頑張って働かねばならないだろうに。

 恐怖。一日のうちで心が何らかの不安で多少なりとも圧しひしがれないですむような瞬間はまれだ。朝は、これからの一日に対する不安。朝六時半、ビランクールに向かう地下鉄に乗れば、乗客の大半がこの不安にひきつった顔をしているのが目につく。遅刻しそうだとしたら、タイム・カードの不安。就業中は、達成に苦労している連中には、充分な速さで仕事が進まないという恐怖。無理して調子を上げようとして、オシャカを出すのではないかという恐怖。スピードが一種の酔い心地を産み、これが注意力をゼロにするからだ。些細な事件が起こって仕損じや道具をこわすようなことになるかもしれないという恐怖。だれもが一般にもつのは、怒鳴られはしないかという恐怖。ただ怒鳴られるのを避けるためだけに、さまざまな苦痛にも甘んじて耐えるだろう。どんなにささやかな叱責でも、口答えできないのだから、強い屈辱なのだ。ところで、叱責を喰うことになるような事態は数えきれないほどある!

 (中略)

 まだ何かあるだろうか? 直属の上司、調整工、職長、監督など、思いのままに「割のよい」あるいは「割の悪い」仕事を命じ、困難が生じた際には気ままに助けることもできれば怒鳴りつけることもできる人たちの好意や敵意が、ケタはずれな重要性をもっていること。嫌われないように永久に努める必要性。監督の言葉なら、暴言にもいささかも気を悪くせず、敬意さえ示してこたえねほならぬということ。

まだ何かあるだろうか? 計時をやりそこなった「割の悪い仕事」、それにも割のよい仕事を「逃がす」ことのないよう身を粉にして働く。仕事の速さが不足すればたちまち怒鳴りつけられてしまうからだが、そうした場合でも計時係がまちがっていたことにはけっしてならない。それどころかあまりしょっちゅうこうしたことが起こると、お払い箱になる危険さえある。そして「割の悪い仕事」であるばかりに、 へとへとになるまで働きながらほとんど収入らしいものをえられないのである。まだ何かあるだろうか? いや、これで充分だ。これまで述べてきたことで、こうした生活がどのようなものであるか、 この生活に服従するということは、ホメーロス
が奴隷についていっているように、「全くおのれの意志に反して、苛酷な必要の圧力に服する」ことである
ことが、充分明らかにされたはずである。(ヴェイユ「女子製錬工の生活とストライキ」根本長兵衛訳)


 私にとって、私だけの話ですが、工場で働くということがどんな意味をもったか、以下に記してみましょう。こんな意味だったのです。

 私の尊厳という感情や自尊心がよりどころにしていたすべての外的理由が(以前はそれらを内的と思っていたのですが)、日々のあらあらしい束縛に見舞われると、二三週間で根こそぎくずれ去 ってしまった、ということです。その結果私の心のなかに反抗の動きが起こった、などと思わないでください。そうではありません。反対に私がこの世で私自身から
もっとも予期していなかったもの ― すなおさ、が現れたのです。あきらめきった挽馬のすなおさが。私には、自分が命令を待ち、命令を受け、命令を実行するために生まれてきた ― かつてそんなことしかしてこなかった ― この先もそんなことしかないだろう、と思われました。

 
得意になってこんな告白をしているのではありません。これはどんな労働者も口にしない種類の苦しみなのです。それを思うだに、あまりにも気分が悪くなるのです。病気のため中止せざるをえなくなったとき、私
は自分がまったくだめな状態に落ちこんでいることを充分に意識し、たとえどんな生活だろうと、もう一度自分をとりもどせる日まで、この生活に耐えよう、と心に誓いました。私は誓いを守りました。徐々に、苦しみのなかで、わたしはあの奴隷状態を通じて、私の人間存在の尊厳という感性を奪回しました。このたびは外部の何ものをもよりどころとしない感情、自分は何にどんな権利もない、苦しみや屈辱をまぬがれた一瞬一瞬は、恩寵として、ただの僥倖の結果として受けとらねばならない、という意識を必ずともなった感情でした。(「アルベルチーヌ・テヴノン夫人宛の手紙(三)」1935年)
 革命なんて、ありうるはずがありません。なぜなら、革命の指導者どもが無能だからです。また、革命は、望ましいものではありません。指導者どもが裏切り者だからです。こういう愚か者に、勝利をおさめられるわけがありません。もし勝利をおきめたとしたら、かれらはまた、抑圧をはじめることでしょう。ロシアにおけるように……(クロード・ジャメール宛)
 
 ただ私には、ポルシェヴィキの領袖たちが《自由な》労働階級を創造すると主張し、しかも彼らのうち誰一人として ― トロッキーは確実、レーニンもそうだと思います ― どうやら工場に足を踏み入れたこともなく、したがって労働者の隷従か自由かを決する現実の諸条件については、世にもかすかな理念さえ抱いてはいなかった、ということを考えますと、政治というものが不吉なばか話のように見えるのです。(「アルベルチーヌ・テヴノン夫人宛の手紙(一)(1935年?)」橋本一明訳)
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