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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
609 「ほんとうの考え・うその考え」―シモーヌ・ヴェイユの神(4)
ヴェイユのドイツ体験
2006年9月16日(土)


 ヴェイユの目がとらえた敗戦(第一次世界大戦の)ドイツの社会状況や政党の動きを、吉本さんは日本の太平洋戦争前や敗戦直後の時期と似ていると言う。私はさらに現在の状況とも似ていると思う。その観点も念頭に置きながら読んでいくことにする。
                   
 当時、ナチスが音頭をとって国家労働奉仕アルバイツデイーンストという制度ができている。自発的な労働奉仕みたいなかたちをとっていて、わずかな賃金が支給されている。でもこれは失業者の強制収容所みたいなもので、ヒトラーが政権をとれば強制的なものになるにちがいない、とヴェイユは書いている。

 若い失業者にとって、自分自身のものとして何が残っているのか? わずかばかりの自由である。しかしこの自由でさえも、若い失業者のための収容所のごときものにおいてお粗末な賃金のために軍隊式の規律のもとに行なわれる労働、勤労奉仕の制度によって脅かされている。現在までは任意的なものだが、ヒトラー主義者の圧力によりこの労働は今日明日にも強制的となるかもしれぬ。

  状況の決定的性格はこの点に存するのであって、貧困自体にあるのではない。その決定的性格は、一方ではその当否は別にして、ドイツにおいてとくに若者が恐慌の一時性を段々信じなくなってきている点にあり、また他方ではいかに精力的でいかにも聡明でも、いかなる人間も自力では恐慌のもたらす一般的困窮から逃れる望みが全くないという点にある。 (ヴェイユ「ドイツにおける状況」伊藤晃  訳)

 さらにヴェイユは次のようことを書いている。
 それぞれの家族は失業者をかかえていても、職に就いているものがひとりでもあると、手当てを支給されない。居づらくなった若い失業者は、放浪や物乞いにはしるか、失業者の強制収容所である勤労奉仕隊にはいるよりほかに仕方がない。こんなふうに家族や私生活のなかにいやおうなく浸透している社会不況と不安は若者たちに、じぶんの未来はじかに政治や社会の未来に結びついて切りはなせないと感じることを強いた。

 日本でも戦時中に学生たちは無給の勤労奉仕に駆り出されていた。イシハラ(都教委)が都立高校への導入を決めている「奉仕活動」を「いいことだ」などという者が多数派になっている。過去から何も学んでいない愚者がこの国に同じ轍を踏ませようとしている。強制的な「奉仕活動」などという発想を、私は限りなくうさんくさく思う。
 
 また私は、上記のような六十数年前のドイツの労働者の状況を現在の日本の奴隷的な条件下の労働者の状況と重ねて読んでいる。コイズミの悪政が引き起こした格差社会で「困窮から逃れる望みが全くない」若者たちが、ドイツの若者たちがナチスにからめとられたように、新たに台頭してきたこの国のファシズム勢力(以下「日本ネオファシズム」と呼ぶことにする。)にからめとられつつある状況をしんそこ危惧している。

 
もっとわかりやすく、このヴェイユの描像は改訂できるとおもう。

 ドイツの若い失業者たちは、飢える自由も、デカダンスの自由も、かるい気もちで掻っはらいまがいのことをやって暮らす自由もあった。それが嫌なら改心してナチスの動労奉仕にくわわり、青年団のような規制と訓練と建設的な正義の名目を手に入れればいいのだ。

 わたしたちの見聞ではナチスの勤労奉仕は外からみるとヴェイユが描いているよりもあかるく健康で建設的にみえた。昔もいまみたいにいい加減だった日本の識者たちは、希望にあふれ、向日的できびきびした表情をした勤労奉仕のドイツ青年たちの集団や、そのあとのヒトラーユーゲントをみて、すぐに幻惑され、日本にも輸入して模倣の集団をつくろうとしたものだ。

 くたびれたドイツの青年たちは、まだやぶれかぶれの気力がのこっていれば、昏迷のさなかでデカダンスと遊びをもっとつづけなが
ら、人間という目的に合致する道はなにかをみつけていくにちがいない。だが青年は社会の風潮に方向がなければそれほどつよくはない。正義と健康と建設の名目をつきつけられれば、ひとたまりもなくそこへなだれこんでゆく。ドイツの青年もそんな岐路に立っていた。

 ナチスがその勢力を拡大していった道筋を追ってみよう。

 
 ヴェイユがいちばん関心をもったのはナチスの動きだったと想定できる。ヴェイユの眼からみれば継ぎはぎだらけのいかがわしいナチスの理念が、たいへんな勢いでドイツの民衆をどうしてとらえていくのか、遠くからみたら不可解で仕方がなかったに違いないからだ。

 ヒトラーの率いるナチス (国家社会主義党) は、じぷんの国の資本主義を敵視するよりも、戦勝国の資本主義の圧迫で、こんな苦しい目にあっているのだというドイツ民衆の感情にあわせて国家主義的な宣伝をひろめていた。またその一方ではドイツの資本家の大部分はユダヤ人だから、ドイツ国家が失墜するかどうかよりも資本家の利益の方が大切だとかんがえている。国家はこの資本家の横暴なエゴイズムに統制を加えるべきだと信じこませ、資本主義とドイツ民族を対立項のように煽りたてた。

 日本ネオファシズムは資本家と結託しているから、資本家を対立軸にはできない。外に敵を作るほかない。中国・韓国・北朝鮮をそのターゲットにして煽り立てるのは当然の成り行きと言うべきだろう。
 

 
 ヴェィユがみたところではナチズムは一つのまとまった思想体系をもっているわけではなく、どこを向いてもいいことずくめの宣伝をやって、そのあいだにとうてい両立できそうもない矛盾があっても、一向に動じない雑炊のような政治運動とおもわれた。

 農村には農産物の高い売値を約束したかとおもうと、都市部には安く暮らせる生活を約束するといった具合で、場あたりの政策を流布している。とうていまともな理念をもつ党派としてあつかえるとはおもえなかった。

 でもドイツの民衆や労働者の現実感情をひきつける力はどの党派よりももっていた。そのいかがわしいが新鮮な力の感じは、ナチスの運動が宣伝している労働者にすこしずつの土地を所有させ、また資本家が過度にかれらを抑圧しようとすれば、国家の力でそれを制圧し、労働者や農民を資本家から保護してくれるという歯ざれのいい口約束によくあらわれていた。

 そんなことができるはずがないというためには、きちっとした理路から説明しなくてはならない。だが疲れたドイツの民衆にとっては、その場かぎりの感情の解放であってもよかったのだ。そこにナチスは喰いこんでいった。

 日本ネオファシズムも「一つのまとまった思想体系をもっているわけではなく…とうてい両立できそうもない矛盾があっても、一向に動じない雑炊のような」党派だ。「官から民」という構造改革によって少し痛みを耐えればいいことがあるというような喧伝をし、結果はごらんの通り。確かにコイズミの無内容なワンフレーズや愚行ヤスクニ参拝に対する民衆の喝采は「その場かぎりの感情の解放」であり、確かな政治理念があってのことではないだろう。

 オコチャマランチ狆ゾウにいたっては「雑炊」にさらに「ヌエ」をかき混ぜた政治姿勢で、この国はいよいよひどい状況になりそうだ。「美しい国」などという情緒的であいまいな
指針で政治をやろうとしている。昨日の新聞報道(東京新聞)によると、教育改革の主要テーマの一つは「学力世界一」だそうだ。何処までピントのずれた間抜けなんだろう。

 
 自覚した労働者がナチスの国家社会主義運動をうちやぶる手段はわずかしかない、とヴェイユはのべている。それはつぎのふたつだ。

(1)
 対立している階級を和解させて、妥協のうえに統一をはかるような国家主義的な運動はどんな希望にみちた「新体制」ももたらさないことを、一般の大衆に理解させることだ。

もうひとつは、

(2)
 ヒトラー派の力にたいして別の力、固有の組織に結集したプロレタリアートの力が存在することを大衆に知らせること。

 ヴェイユのいっていることは、いずれも言うは易く行うのは難かしいことばかりで、結局は何も語ってはいない。ようするにナチスのまえに手をこまねいているほかないということだった。ヒトラーのナチスがドイツの労働者や大衆に与えていたヌエのような得体のしれない新鮮さにたいして、共産主義者や社会民主主義者の戦術的な振舞いばかりうまくなった無力さでは、まったく歯がたたないことはよくみきわめられている。

 私(たち)も今、有効な運動を創り得ていない。私には選挙で何かが変わるなどという期待はない。いまのところ非暴力直接行動以外に有効な運動を知らない。反「日本ネオファシズム」の集会やデモに今の10倍の参加者をあれば、反動の流れを変えることができるのだがと、そのわずかな可能性に期待を寄せている。

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