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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
608 「ほんとうの考え・うその考え」―シモーヌ・ヴェイユの神(3)
教師時代のヴェイユ
2006年9月15日(金)


 ヴェイユは、学生時代から人権問題や平和運動に関わっている。労働運動にも関わり、失業者救済運動でビラ配りなどもしている。

 1931年 22才。ル・ピュイ国立女子高等学校の哲学の先生になる。先生になったころにはもうアナーキズム系(非スターリン系)の雑誌に政治論や政治情勢論を書きはじめ、フランスにはヴェイユがいると知られるほどになっていた。


ドイツ体験
 また教師時代に政治論文を発表したり、組合運動を支援したりして忌避され、別の学校に転任させられている。前々回に掲載した略年譜には書かれていないが、その転任まで期間を利用してヴェイユはドイツに行っている。ドイツはそのころ、ヒトラーがナチス=国家社会主義党を率いて台頭してきた時期です。それがどういうことなのか自分で確かめたかったのでしょう。

 そこでヴェイユが見たいちばん重要なことは、ドイツ共産党がどんどんナチスに転向していくことだった。またドイツ共産党にたいして、ソ連共産党は応援するどころかかえって、フランスと組んでソ連にあたってくるのではないかと疑って、抑圧してしまう。ヴェイユはドイツでこういう生々しい矛盾をつぶさに見てきている。

 トロッキーとの論争
 もうひとつ教師時代に重要なことがあった。ちょうどトロッキーが第四インターナショナルをつくろうと亡命する過程でフランスに来たとき、ヴェイユはじぷんの家を宿舎に提供している。そのとき二人は議論をしている。そのときの論争の状態をヴェイユはメモに残していた。その論争を大まかにまとめると次のようであった。

ヴェイユ
「ソ連は労働者国家だというけれど、すこしも労働者国家ではないじゃないか。共産党官僚独裁国家で、労働者はぜんぜん解放されていない」

トロッキー
「きみはまったく反動的だ。労働者はじぶんが容認できるかぎりにおいて、政府を承認しているのであって、労働者が共産党国家を容認しているかぎりは、労働者の国家といっていいんだ。ようするに労働者が現行の政府を承認しているなら、それは労働者国家といえる」

ヴエイユ
「そんなばかなことはない。あれはただの官僚独裁国家にしかすぎない。もしトロッキーがいうようなことが通用するなら、どこの資本主義国家にたいしても労働者はその政府を黙認しているじやないか。黙認しているから労働者国家だなんていえない。労働者を解放していないかざり労働者国家とはいえない。労働者がイニシアチブをとる国家でなければ労働者国家といえない」

 誰でもヴエイユの考えのほうが妥当だと考えるでしょう。
 現在存続しているどこの国だって労働者は自国を承認している。しかし、承認しているだけで肯定しているわけではない。それを声を大にしていっているかどうかは別問題です。承認しているから労働者国家だなんて論理は誰が見たって詭弁です。

ヴェイユとトロッキーの論争は物別れになるんですが、この論争は重要だとおもいます。ど んな支配体制、どんな政府をつくったとしても、頭脳を働かせて指導する者と、実際に肉体を行使して肉体労働する者とのちがいは永久に解消しないのではないか、というのがヴェイユの考えが行きづまった集約点です。社会思想あるいはロシア社会主義に体現された思想にたいするヴェイユの不信感と、それとはちがうものをつくろうとかんがえた根柢はそこにあるとおもいます。 頭脳労働と肉体労働との区別が解消しないかぎりは、どんな政府をつくっても平等、あるいは労働者の解放が実現しないのではないかというのがヴェイユの社会思想、革命思想の究極的な集約点になります。

 このヴェイユの集約点は検討されなくてはいけないとおもいます。ロシア・マルクス主義思想の危ない個所をどこで超えていくのかということです。 ぼくの現在の考え方でしたら、国家を開くか開かないかというところにもっていくとおもいます。

 トロッキーの考えはだめで、スターリンはなおさらだめだとおもいます。国家が開いていればヴェイユのいう疑問点がある程度解消していくはずです。国家は内部では大衆にたいし開かれており、外部にたいしては国境が開かれていれば、ある期間国家が存続していても、労働者の解放への糸口が絶えずもちつづけられることを意味します。

 その<開く>ということは具体的にどういうことでしょうか。 国内的にいえば、国家つまり政府をつくっている者にたいするリコール権、いいかえれば無記名の直接投票で、多数を占めればいつでも政府をリコールできるようにしておくことです。代議員をとおしてではなく、民衆の無記名直接投票で過半数が現行の政府を否認したら、政府は代わらなければならないという法律を一項目もっていれば、たぶん国家は民衆にたいして開くことができるとおもいます。国家が開かれていれば、民衆が直接、政府を代えることができます。それは労働者がかりに直接政府のなかに参与していかなくても、労働者が解放されている国家といっていいんじゃないかとおもいます。

 また、国家間国家といいますか、国際国家のあいだでは国家を閉じないということです。いつでも開いていて、国家が存続していても、絶えず外の国家と交流できることです。たとえば現在、日本とロシアのあいだに北方領土問題がおこっているでしょう。具体的にいえば、これをおれのところへ返せとか、いや、おまえのところに返さないとかというのが、いまのロシアと日本の現状なわけです。国家を開くという観点がそこにあれば、北方領土だけは両方の国民がいつでも自由に出入りしたり、住んだりできるようにしようじゃないか、そこだけは国境なしにしようじゃないか、そしてそこでの行政的なことは日本とロシアと両方から委員を出して、四島の行政機能を行うという解決の仕方ができます。そういうことが国家を開く、国際間で開くということです。

 国内で開くということは、政府はいつでも、民衆が否認するという意志を示したらやめなければならないという法が制定されていれば、その国家は民衆にたいして開かれているということになります。それは口で言うのはやさしいですが、実現するのはなかなかむずかしいことです。いつかはそうしなければならないことですし、そうなるでしょう。しかしそれを言いだす政府も政党もいまのところないわけです。いってみれば国家社会主義(ファシズム)か社会国家主義(ロシア・マルクス主義)かのちがいで、国家ということがついて回って、すこしも開かれていないことが問題なんです。

 ヴェイユはそうはかんがえないで、頭脳労働する者と肉体労働する者との区別があるかぎりどんな社会がきても、どんな理想の政体をつくってもだめなんじゃないか、やはり差別はあるんじゃないかという考えにたどりつきます。そしてその考え方をもとにして工場体験に入ります。

(『ほんとうの考え・うその考え』における「ヴェイユのドイツ体験」についての記述は『甦えるヴェイユ』と比べてたいへん簡略されている。講演という限られた時間内での論述なので当然なことです。しかし、ヴェイユがドイツ体験について書き残した記述は現在のこの国に状況に重なっていて、私にはとても関心がある。少し深入りしてみようと思う。次回からしばらく『甦えるヴェイユ』を使います。)
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