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603 「ほんとうの考え・うその考え」―ヨブの主張(3)
ヨブの絶望・呪い・抗議の言葉(2)
2006年9月10日(日)


 ところで、ヨブが信仰する神とはどんな神なのか。「ヨブ記」の最終近くで 、ヨブの絶望と呪いの言葉に対して神は次のように応じている。(第38~39章)


これは何者か。
知識もないのに、言葉を重ねて
神の経綸を暗くするとは。
 
男らしく、腰に帯をせよ。
わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。 

(以下は第38~39章の要約)

この地上に大地を据えたのはわたしだ。 朝日や曙に役割を指示したのもわたしだ。 おまえは海の湧き出るところまで行き着き、 深い縁を巡ったことがあるか。 死の門をつくったのもわたしだし、 死の闇の門を見たのもわたしだ。 光がどこにあるかを指し示せるのもわたしだ。 雪がどこから降ってくるか、 霞がどこから落ちてくるかを知っているし、 それをさせているのもわたしだ。 風がどの道を通って吹くのか、 豪雨がどういう水路をつくるか、 稲妻がどうやって落ちてくるかも わたしのなせる業だ。 すばるとかオリオンとか銀河を つくったのもわたしだ。 天の法則もわたしがつくった。 洪水をおこすのも、 烏たちを鳴せるのもわたしだ。 おまえはそういうことができるか、 できないだろう。 動物から植物まで全部、 全能者であるじぶんがこしらえたのだ。 おまえは全能者と言い争うが、 引き下がる気があるのか。 神を責め立てる者よ、答えるがいい。

 これは天然自然の動きの背後には一個の神がいて、森羅万象その意志によって おこると自然認識を示している。この認識はユダヤにおけるいちばん初期の 宗教的な自然認識で、オリエントの特徴です。もちろんヨブの信仰もこのよ うな神への<信>に支えられている。次の詩句はヨブの言葉です。


 神は山をも移される。
 怒りによって山を覆されるのだと誰が知ろう。
 神は大地をその立つ所で揺り動かし
 地の柱は揺らぐ。
 神が禁じられれば太陽は昇らず
 星もまた、封じ込められる。
 神は自ら天を広げ、海の高波を踏み砕かれる。
 神は北斗やオリオンを
  すばるや、南の星座を造られた。(9章)

 ぼくらがもし「ヨブ記」を、ヨブを中心にして読むとすれば、この神の 言葉はとてもつまらなくみえます。なにも答えていないじゃないか。じぶ んは天然自然を全部動かせる全能者だぞという自慢をしているだけで、ヨ ブの苦悩にたいしてすこしも答えていないじゃないかともおもえるわけで す。これにたいしてヨブは、人間的倫理としてはもう極度の苦悩と惨めさ のなかに陥れられ、そこからぎりぎりの言葉を神にたいして吐いています。 それは呪いになったり抗議になったりしていますが、その呪いとか抗議の もっている深い倫理性は、たいへん優れたものだと受けとれます。ヨブを 中心にして読めばそうなります。

 ヨブの言葉はだんだん切迫してきて吐く言葉がなくなってくる。


目は苦悩にかすみ
手足はどれも影のようだ。
正しい人よ、これに驚け。
罪のない人よ
神を無視する者に対して奮い立て。(17章)

それならば、知れ。
神がわたしに非道なふるまいをし
わたしの周囲に砦を巡らしていることを。(19章)

神はわたしの道をふさいで通らせず
行く手に暗黒を置かれた。(19章)

親族もわたしを見捨て
友だちもわたしを忘れた。
わたしの家に身を寄せている男や女すら
わたしをよそ者と見なし、敵視する。(19章)

憐れんでくれ、わたしを憐れんでくれ
神の手がわたしに触れたのだ。
あなたたちはわたしの友ではないか。
なぜ、あなたたちまで神と一緒になって
わたしを追い詰めるのか。
肉を打つだけでは足りないのか。(19章)

 ほとんど神にたいしても、友人にたいしても全部、抗議の言葉と呪いの 言葉を吐く以外にもう場所がないところで、ヨブは絶望の言葉を吐いてい ます。もしその絶望の言葉を深いとかんがえるなら、ヨブの絶望の言葉の ほうが神よりもずっと深いということになるとおもいます。

 これは信仰のない者とかうすい者にとっては重要な言葉だとおもいます。 信仰のある人にとっては、この絶望の言葉は、新約聖書の福音書につながっ ていくんだという理解になっていくとおもいます。あるいはそういうふうに つくられていると理解すれば、「ヨブ記」はそういうふうにつくられている とおもいます。


 新約聖書へとつながるいう観点からみれば、ヨブ記のなかの 次のようなわかりにくい詩句が重要な意味を持つようになる。


わたしはなお、あの方に言い返したい。
あの方と共に裁きの座に出ることができるなら、
あの方とわたしの間を調停してくれる者
仲裁する者がいるなら
わたしの上からあの方の杖を
取り払ってくれるものがあるなら
その時には、あの方の怒りに脅かされることなく
恐れることなくわたしは宣言するだろう
わたしは正当に扱われていない、と。(9章)

このような時にも、見よ
天にはわたしのために証人があり
高い天には
わたしを弁護してくださる方がある。
わたしのために執り成す方、わたしの友
神を仰いでわたしの目は涙を流す。
人とその友の間を裁くように
神が御自分とこの男の間を裁いてくださるように。
僅かな年月がたてば
わたしは帰らぬ旅路に就くのだから。(16章)

 神とじぶんのあいだを「調停してくれる者」、「仲裁する者」がいたら、 そしてじぶんの苦悩を背負って取り払ってくれたら、じぶんは神から正当に 扱われていないと言いたい。調停してくれる者とか仲裁する者を、じぷんが そうだと言うだけの信仰はないし、自信もないから、そうも言うことはでき ない。そうすると誰かそういう人がいてくれたら、じぶんはおおっぴらに悪 いことをしていないと神に言うことができるだろうと、ヨブは言うわけです。
 「ヨブ記」のヨブは、自然であるところの神、あるいはユダヤの神にたいし て、人間の善悪とか倫理、つまり人倫を象徴する人物をもってきて、それを 教義とすることによってユダヤ教を変えようとするところの過渡期に出てき た人物だというふうに理解できます。

 このヨブとは、人間の倫理が自然に近い神(ユダヤの神)にたいしてどこ まで関係をもてるか、あるいはユダヤ的神と人間の倫理から信仰へ到る過程 の、どういう場所で出あえばいちばんいい信仰のあり方かを象徴する最初の 人間のようにおもいます。

 たぶん「ヨブ記」のヨブをもっと見つめていきますと、新約聖書の主人公 のイエスになるとおもいます。つまり、むこうが自然神であるならば、こち らというのはおかしいですが、こちらは人間の罪とか悪とか、未来をも一人 で全部背負っちゃうという人物を一人設定すれば対抗できる。対抗できると いうのは不信心な言い方ですが、そういう「神にして人」のような人物 がやってくればユダヤ教は変えられる、というふうになります。つまり人間 の倫理のほうからユダヤの神にどういうふうに迫れるかとか、どういう仲介 っていいますか媒介ができるかということの、ひとつの象徴としてかんがえ れば、「ヨブ記」は解釈できるんじゃないかとおもいます。

 だけどこれは歴史的解釈で、この際あまりしたくありません。ここでは <信>であるか<不信>であるか、あるいは<倫理>であるか<自然>で あるかということの問題として、「ヨブ記」を理解していきたいとおもい ます。

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