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602 「ほんとうの考え・うその考え」―ヨブの主張(2)
ヨブの絶望・呪い・抗議の言葉(1)
2006年9月9日(土)


 神が悪魔に、ヨブがいかに信仰が深いかを試させたことからこの劇詩 「ヨブ記」はできている。しかし、これを読むものには、どうしてこう いうことを神が悪魔に語らせたのか、たいへん不可解なこととして心に 引っかかる。また、神がヨブに試練を課したのだとしてもこんな酷す ぎる試練になんの意味があるのか、という疑問が当然生じてくる。

 さて、「三人の友人との議論」では、ヨブの友人とヨブの<信>の考え方の違いが クローズアップされる。

 ヨブは、「じぷんたちは信心深くやってきたし、人にたいしても慈悲を施し てきたし、どこにも悪いことをしていないのに、どうしてこんな目にあうんだ ろうか」と言う。
 これに対して三人の友人たちの信仰の仕方は、大方の宗教の一般的な信仰の仕方 と同じで、神は悪いことや罪あることをしない者にたいして、悪い報いを与え るはずがないということが信仰の大前提になっている。だから、ヨブを慰めたり はする一方、ヨブがそんな目にあったのはどこかで悪いことをしている、罪を犯 しているからだということを三人の友人は疑わない。だから、ヨブが自分の至らなさを 知って反省すれば、きっと神は不幸とか苦悩とかをヨブから取り去ってくれる だろうと、ヨブに説いて諌める。あるいはヨブの神にたいする呪いを緩和しょ うとする。

 しかし、ヨブはじぶんは絶対に悪いことをしていないということを疑わない。 あくまでもヨブはじぶんの考え方を改めないし、呪いも改めない。もしまち がっているとすれば、神のほうがまちがっていると最後まで主張してやまな い。

 二回目の議論でもやっぱりおなじことになる。友人のほうは、おまえは生 意気というか傲慢だ、神にたいして呪いとか、まちがっているとか主張する ことじたいが傲慢なんだ、と言う。つまり人間を神よりも上におこうとして いる。その傲慢をなおさないかぎりだめだということを主張して説き伏せよ うとしる。でもヨブの答えはまったく変わらない。

 このヨブの<信>のあり方が「ヨブ記」の重要な要です。三人の友人との 議論におけるヨブの言葉の中から、神とよく対峙していると思われる言葉を をいくつが抜書きしてみる。

  仮借ない苦痛の中でもだえても
  なお、わたしの慰めとなるのは
  聖なる方の仰せを覆わなかったということです。(6章)

 「覆わなかった」と言う言葉が分かりにくい。この行の文語訳版は 「こは我聖者(きよきもの)の言に悖(もと)りしことなければなり。」 です。…(仁平註)

 ヨブは、神に対して誤魔化しをかんがえたり、誤魔化しの主張をしたりしな かったと言っている。

  あなたは夢をもってわたしをおののかせ
  幻をもって脅かされる。
  わたしの魂は息を奪われることを願い
  骨にとどまるよりも死を選ぶ。
  もうたくさんだ、いつまでも生きていたくない。(7章)

 夢のなかでもヨブはなお神から苦しめられている。夢のなかまで、 つまり無意識のなかまで入ってきてじぶんをいじめ、虐げると言ってい る。もうたくさんだ、いつまでも生きていたくない。ヨブはそういう ふうに言う。

 最大限の不幸を体験した人間が、もし信仰があったらこういうふうに 呪う以外にないということを、ヨブは言っている。その言い方は人間の ぎりぎりの不幸とか苦悩とか運命のいたずらとか、そういうものに出あった 人間がどうしても吐かざるをえない言葉でしょう。そういう意味で、それは たいへん感銘ぶかいものです。

  なぜ、わたしに狙いを定められるのですか。
 なぜ、わたしを負担とされるのですか。(7章)

これはヨブが神にたいして抗弁する言葉です。ヨブの絶望、呪い、神への抗議 の言葉は人間存在の根源的なぎりぎりの認識へと向かっていく。

  わたしの方が正しくても、答えることはできず
  わたしを裁く方に憐れみを乞うだけだ。(9章)

  神は無垢な者も逆らう者も
  同じように滅ぼし尽くされる、と。(9章)

  手ずから造られたこのわたしを虐げ退けて
  あなたに背く者のたくらみには光を当てられる。
  それでいいのでしょうか。(10章)

  逆らおうものなら、わたしは災いを受け
  正しくても、頭を上げることはできず
  辱めに飽き、苦しみを見ています。(10章)

 これはヨブの神にたいする抗議と、呪いの言葉です。ヨブの言うことは 全部、そういうじぶんにたいする呪いと、神にたいする抗議とに満ちみち ています。それをいろんな言葉で繰り返し言い返し、言いなおして述べ立 てています。それも言葉が不幸のぎりぎりのところから出ているものです から、たいへん感銘ぶかいのです。深みのある言葉に満ちていて、「ヨブ 記」のなかのヨブが吐いている言葉は、新約の福音書のなかのイエスが吐く 言葉ととてもよく似ています。罪と罰、善と悪のような倫理の問題のぎりぎ りのところから吐いているという意味でもとてもよく似ています。また感銘 ぶかいわけです。

 それにたいして二回日の議論で三人の友人は、神にむかってそんな言葉を 口にするとは何ごとだ、どうして人間は清くありえよう。まして人間は水を 飲むように不正を飲む者、憎むべき汚れた者なのだ。おまえはどこか汚れて いるから、どこかに罪があるから、どこかで不正をしているから、こんなに ひどい目にあっているんだ。それを悟らずに神にたいして呪いの言葉を吐い ている。それなら神と和解することはできないし、神がいつまでもおまえを 罰するだけだ、と言うわけです。

 こういうことが繰り返されていると、なんとなく、わたしたちが日常生活の なかで当面しているいろんな場面に似てきます。つまり、善いことばかり言っ てじぶんは正しいとおもっているやつは、いまでも満ちみちでいるわけです。 だけど、ほんとうに善いことだとおもっているのかを問いなおしたら、そう じゃないことはたくさんあるとおもいます。それこそが重要なことなんです。 その問いなおすことにおいて、じぶんはすこしも傷つかないで善いことばか り言っているやつにたいして、あくまでもおまえのはだめなんだと言うこと が、現在の課題でもあるわけです。

 またみなさんは大震災の影響を受けておられます。これは無差別で天然自 然ですから、もしユダヤ教やキリスト教のように、自然を背後にあって支配 する唯一神を信仰している人でも、どうして開西地区だけに大震災はおきた んだということになりますし、また自然とかんがえても、なにもなくて もひどい目にあっているのに、なおさらそのうえにひどい目にあわせるのは どうしてなんだと抗議したいところは、いまでもたくさんあるとおもいます。

 こういうふうに見ていきますと、だんだん三人の友人とヨブとの問答が現実 味をおびてくるのがわかります。だから完全に現代における倫理の問題として 読むこともできます。

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