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600 吉本隆明著「ほんとうの考え・うその考え」

2006年9月7日(木)


 「第542 2006年7月3日」に私は「普遍宗教」という副題をつけた。「普遍宗教」 という言葉を、例えば柄谷行人さんは世界に広く普及している宗教つまり「世界宗 教」という意味で使っている。(「世界共和国へ」第Ⅱ部第3章)もしかすると 多くの場合はその意味で使われいるのかもしれない。しかし、私が言う「普遍 宗教」はそういう意でない。

 宗教が人類にとって有意味な面があるとすれば、それはその中に含まれている 「倫理性」です。私が宗教を認めるのはその「倫理性」においてであり、その 「倫理性」の質がその宗教に対する私の評価の基準です。

 既存のあらゆる宗教の倫理性を包含しかつ超えている宗教があるとすれば、 それは従来の意味での宗教とはまったく異なるものになるかもしれないが、 それを「普遍宗教」と呼びたい。そして「第542回」で私は『そのとき「普遍宗教」の神は自然 にほかならないのではないか。』と述べたように、そこには従来の宗教で言うところの 神は不在になっているだろう。そういう意味では「普遍宗教」=「普遍倫理」 と言ってよい。

 吉本隆明さんの著書「ほんとうの考え・うその考え―賢治・ヴェイユ・ヨブを めぐって」の中表紙の裏に小さく一行「普遍宗教性の問題として」とあった。 この著書は私が言う意味での「普遍宗教」=「普遍倫理」の可能性についての 論考だった。

 宮沢賢治の作品「銀河鉄道の夜」(初期形)にブルカニロ博士が語る言葉 の中に次のような一節がある。

「みんながめいめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだらう、けれ どもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。そ れからぼくたちの心がいゝとかわるいとか議論するだらう。そして勝負がつか ないだらう。けれどももしおまへがほんたうに勉強して実験でちゃんとほんた うの考とうその考とを分けてしまへばその実験の方法さへきまればもう信仰も 化学と同じやうになる。

 この一節の中の「ほんたうの考とうその考とうその考とを分けてしまへばその実験の方法さへきまればもう信仰も 化学と同じやうになる。」という一文をめぐって、吉本さんはこの著書のモチーフを次のように述べている。

 このばあいの「信仰」というのを宮沢賢治のように宗教の信心と解さずに、 それも含めてすべての種類の<信じ込むこと>の意味に解して、この言葉 を重要におもってきた。つまり<信仰>とは諸宗教や諸イデオロギーの現在ま での姿としての<宗教性>というように解してきた。宗教やイデオロギーや政 治的体制などを<信じ込むこと>の、陰惨な敵対の仕方がなければ、人間は相 互殺戮にいたるまでの憎悪や対立に踏み込むことはないだろう。それにもかか わらず、これを免れることは誰にもできない。人類はそんな場所にいまも位置 している。こうかんがえてくるとわたしには宮沢賢治の言葉がいちばん切実に 響いてくるのだった。

 このばあいわたし自身は、じぶんだけは別もので、そんな愚劣なことはした こともないし、する気づかいもないなどとかんがえたことはない。それだから もしある実験法さえ見つかって「ほんとうの考え」と「うその考え」を、敵対 も憎悪も、それがもたらす殺戮も含めた人間悪なしに(つまり科学的に)分け ることができたら、というのはわたしの思想にとっても永続的な課題のひとつ にほかならない。


 この著書は三部構成になっている。

Ⅰ 宮沢賢治の実験―宗派を超えた神
Ⅱ シモーヌ・ヴェーユ―深遠で隔てられた匿名の領域
Ⅲ ヨブの主張―自然・信仰・倫理の対決

 副題で明らかなように、それぞれ「普遍宗教」への可能性をテーマにしてい る。

 次回からこの著書を読んでいくことにする。私の勝手な思い込みから、著書の 順とは逆に、Ⅲ→Ⅱ→Ⅰの順序で読むことにします。

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