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425 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(77)
日出ずる処の天子(8) ― 法隆寺の中の九州王朝(3)
2006年1月22日(日)


 九州王朝の倭王・多利思北孤(=日出づる処の天子)がイ妥国伝に登場するのは 開皇20年(600)~大業4年(608)である。一方、法隆寺釈迦三尊の光背銘に刻印された 九州元号・法興は591年~622年に当たる。「上宮法皇=多利思北孤」だ。

 イ妥国伝が伝える多利思北孤に関する記述は、光背銘の「上宮法皇」をめぐる記載内容と よく対応している。以下、古田さんの論述を掲載しよう。


 多利思北孤は「日出づる処の天子」をもって自称すると共に、

 出でて政を聴くに跏趺して坐す。

とあるように、仏法の威儀たる結伽趺坐の姿をもって政務を聴いた、という。峻厳なる仏法 統治を志していたものと見られる。
 これに対し、釈迦三尊もまた、中央の釈迦像のみは、結伽趺坐の姿で作られている。仏像 として当然であるかとも見えようが、両脇侍が立像である点、また尺寸王身で作られたとい う釈迦像は、平常の「上宮法皇」の姿を摸したもの、と見られる点、見のがしがたい一致と いわねばならぬ。


 多利思北孤は、隋に使者を派遣し、次のように言わせていた。

 大業三年(607、煬帝)、其の王多利思北孤、使を遣わして朝貢す。
 使者曰く「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて 沙門数十人、来って仏法を学ぶ」と。

 このときの使者が持参した国書、それが例の「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致 す、志無きや、云々」の文辞をふくむものだった。その上、多利思北孤は「沙門数十人」を送り、 仏法を学ばせているのであるから、仏法を篤く信じた王者であったことは、十 分に察しえよう。

 したがって相手(隋の煬帝)に対して「海西の菩薩天子」と呼びかけたとき、みずからも 「海東の菩薩天子」という自負をもっていたと見なすこと、それはおそらく不当ではないで あろう。
 とすれば、その「菩薩天子」とは、すなわち〝仏法に帰依した天子″の謂いに他ならぬ。 それは〝結伽趺坐して政務を聴いた天子″たる多利思北孤にふさわしき自負である。
 これと、光背銘中の「法皇」の称号、それは全く内実を同じくすることを、わたしたち  は知るのである。


 さらに、多利思北孤は、煬帝に対し、

 重興仏法(重ねて仏法を興す)

と、使者に言わせている。「重ねて」というのは、〝ふたたび″の意だ。煬帝をもって、〝第 二回目″に仏法を興隆させた天子、と見なしているのだ。では、〝第一回目″は。もちろん、 多利思北孤自身だ。みずからが仏法を興したことを前提にした上での発言なのである。
 では、「仏法を興す」という言葉を一個の熟語とすれば、それは何か。当然「法興」の一 語だ。

 以上、在位期間、「上宮」「法興」と、いずれも、光背銘とイ妥国伝と、中心人物の性格が本 質的に対応し、一致していることが知られよう。

 これによって意外にも、「多利思北孤(九州の王者)=上宮法皇」 の帰結にわたしたちは 到着せざるをえないのである。

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