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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
597 唯物論哲学 対 観念論哲学(19)
芸術と宗教
2006年9月4日(月)


 観念論哲学者は、宗教も芸術と同じような空想あるいはフィクションの 世界であることを理解できずに真理のあり方だと解釈する。そして芸術も 宗教も真理であるというところに共通点をがあり、宗教のほうがより高度の 真理だというところに差異があると主張した。

 科学的な唯物論では、芸術も宗教も認識のありかたであり、芸術のフィク ションも宗教のフィクションもフィクションであるというところに共通点 を認める。しかしそのありかたには、高度とか低級とかいうようなランクの違いで はなく、本質的に大きな違いがある。

 例えば小説の登場人物も宗教の神も、現実に存在しない空想の産物だとい う点では変りがない。けれども芸術のフィクションはフィクションであること を自覚して創造する。この創造は表現のための創造であるから、創造した 世界が表現に定着すればもはや用ずみとなる。消滅してさしつかえない。 これは鑑賞者の方も同じです。作品を鑑賞しているときはそのフィ クションの世界をある程度具体的に記憶していなければならないし、事件の 過程や登場人物の動きなどについて忘れたときには前のページをめくってみたり するが、鑑賞が終れはもう用ずみであって、消滅してもさしつかえない。 さらに鑑賞者はフィクションの世界から自由にぬけ出して現実的な自己の立場から そのフィクションの世界をとりあげることもできる。

 これに対して宗教は、そのフィクションをあくまでも「真理」として提出す るのであり、信者もまたこれを真理として受けとり、神が現に存在して自分の運命 を規定しているものと思っている。その「真理」を消滅させるのは「真理」 を放棄することであり許されない。だから信者はフィクションの世界へ入りこみっぱ なしなる。現実的な自己の立場での現実の世界のありかたと観念的な自己の 立場でのフィクションの世界のありかたとを二重化したままつなぎ合せ、つまり自己 を疎外し、この現実の世界の向う側に天国や地獄や神や悪魔が実在するもの、 現実の世界での毎日の生活はそのフィクションの世界とむすびつき相互に規定 されているものと信じている。

 宗教では現実の世界とフィクションの世界とがむすびつけられ、現実の世 界での真理や教訓や社会観や人生観もフィクションの世界のありかたとむす びつけてとりあげられるために、そこにさまざまな逸脱が生れてくる。

 人間がつくり出した道徳や掟も、神にむすびつけられて神の与えた道徳や 掟となり、同じく人間がつくり出した言語表現のための規範も、神にむすび つけられて神の与えた表現能力と解釈されることになる。しかも神という 観念的な創造の対象化は、芸術の場合とちがって、人間から引き裂き取り上 げるかたちで対象化されるから、人間はもはやそれらを失った存在に なってしまう。神が智慧であり道徳であり愛であり、人間はそれらを持たな い存在である。現に人間が持っている智慧や道徳や愛は人間自身がつくり出 したものではなく、神によって与えられたものにすぎない。つまり、神が 万能になるに従って人間は無能になっていく。神が偉大になるに従って人間 はみじめな貧弱なものになっていく。

 反対に人間持っている創造力や精神力を人間そのものに由来するものと 認めれば認めるほど、神の能力は制限されないわけにはいかない。神と人間 とは、この意味で敵対的な関係におかれているといわなければならない。

 芸術における作者の創造した人物が作者の統制の下にあるのとは逆に、宗教 における人間の創造した神は人間をその統制の下におく。人間は自己の観念的 に創造して対象化した存在に支配されるという転倒が行われている。

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