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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
337 「日本」とは何か(29)
ヤマト王権の出自(8)
2005年7月21日(木)


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 即ち、鳥見(とみ)の長髄彦(ながすねひこ)、菟田(うだ)の兄猾(えうかし)・弟猾(おとうかし) 、吉野の井光(ゐひか)、同じく磐排別(いわおくわく)、苞苴担(にへもつ)、国見岳の 八十梟帥(やそたける)、磐余(いわれ)の兄磯城(えしき)・弟磯城、磯城の磯城八十梟帥、 高尾張の赤銅(あかがね)八十梟帥、兄倉下(えくらじ)・弟倉下、波?丘岬(はたのおかさき) の新城戸畔(にいきとべ)、和珥坂(わにさか)の居勢祝(こせほふり)、臍見長柄丘岬(ほとみのながらのをかさき) の猪祝(ゐのほふり)、高尾張の土蜘蛛(つちくも)などとあります。地名は動く可能性もあり、 また奈良朝人の想定も予測されるが、地名と部族名が平行して出て来るところから、古くからその 部族がそこに住んでいたという気がします。これらの地名を現在の地図にあてはめると、全部標高 70m線以上にあります。若し神武紀が奈良朝に偽作されたものならは、考古学や地質学の知識のな い、しかも地盤隆起の原則を知らなかった奈良朝人は、これらの地名のうち一つ位は地盤の低い所 をあてても良いと想像される。このようなところに案外、古代人の活躍の史実が古典に投影してい るのではないかと思われるわけです。

 古い土地、つまりより標高の高い土地70m以上のところには土着の人たち、たぶん縄文人と弥生人が 融合しながら平穏な社会を営んでいた集落があった。
 更にこれらの遺跡を発掘してみますと、全部が縄文土器終末期のもので す。最近、晩期縄文土器の年数設定が出来た。炭素放射能の減退量をミシガソ大学が測定したと ころによると、近畿地方の中期弥生式土器は大体今から二千四百年ほど前、そして晩期縄文土器 は約二千六百年前のものと測定された。もちろんプラス・マイナス二百年の誤差はありますが、 この事実は科学的に信用せざるを得ないのではないでしょうか。従って神武天皇遺跡は大体にお いて少なくとも二千六百年、更にはそれ以上前の湖岸もしくはそれよりも高い所の地名が舞台に なっていると云うことが出来ます。14の遺跡すべてが一致してその如くであることは、単なる 偶然としては見過ごされない事実でして、寧ろ必然的な史実の投影があったと考えた方が妥当か と思います。

 樋口さんは土器から推定された紀元前600~400年という年代をそのままヤマト王権の初期の大王たち の時期とみなしているようだが、私たちが史書の記録から100~300年頃と推定した年代とはるかに異なり、 容認しがたい。その反論の根拠は素人としさし控え、深入りしない。
 しかし「14の遺跡すべてが一致してその如くであることは、単なる偶然としては見過ごされない事実でして、 寧ろ必然的な史実の投影があったと考えた方が妥当かと思います。」という点は、その可能性は否定しがたい と思う。
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 しかも橿原遺跡は、奈良県では珍らしく大きな縄文末期のものです。この岡で人間は半水上生 活をしていたこともわかっております。舟も着きやすく、見張りにも便であり、三方が水であっ てみれば敵から守ることにも都合がよかったようです。そしてこの遺跡から出た食糧を眺めると、 水の幸・山の幸の両面に恵まれた生活であったことが想像出来る。即ち、鼬廃鼠(いたち)・野兎 ・猪・鹿・狼・山犬・狸・狐・河獺・熊・穴熊・猿・鶴・白鳥・鴨・鳩・鴫・山鳥・鯨・石亀 ・?(えい)・鯛・河豚・鯔(ぼら)・鱸(すずき)・海豚など、まことに多種多彩です。魚類に しても近くの淡水魚はもちろん、?(えい)・鯛・鯔などの海魚は恐らく遠く大阪湾から持ち運んだ と思われ、また鯨・海豚などは紀伊方面か らの経路が想定されます。更にこの遺跡から出る石器の石質は吉野地方の緑泥片岩であって、か くみると、橿原遺跡の生活圏或は物資伝播の経路は非常に広いということになります。所で、 檪(くぬぎ)・樫はやや亜寒地性のところに好んではえる植物で、今の大和平野にはありませんが、当時の 気温環境はより寒冷に近いものだったことも同時にわかって、まことに面白いと思います。  このように縄文晩期の聚落はこの地に栄えていましたが、或る時期に川が流れて来て半島の先 をけずり、水で包んでしまったために木は枯れ、その上から堆積土が2mも重なり長い間地下に 埋まってしまった。もし橿原の地名が畝傍山の東南にあったとしても、その地名は消え去ってし まう可能性が肯けるのであります。
 かく云う私は、神武天皇個人の存在を無条件で認めているわけではない。神武天皇紀の説話に、 歴史的信憑性があり、歴史の投影があると云っているのです。

   吉本さんのコメントで結論付けると、樋口さんは「これらの根拠から、神武東征の神話が、北九州の稲作や製 鉄器の技術を伴った弥生式の文化が、畿内に伝播し、流入する経路を象徴するに足りることを結論 している。」ことになる。
 しかし私が注目したいのは、ヤマト王権がよそから畿内に侵略してきた種族だとすると、その侵略までは縄文人 たち(弥生人との融合を深めながら)が豊かで平穏な社会を営んでいたらしいということである。
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