FC2ブログ
2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
335 「日本」とは何か(27)
ヤマト王権の出自(6)
2005年7月18日(月)


 前回の追記。
 もしかしたら…と思い至って、今日、念のため「日本書記」を覗いてみた。こちらの方には即位 したときの年齢も書かれていた。「紀元前660年2月11日」は日本書記を用いて計算されたようだ。
 あまりバカバカしいので全部調べる労をはぶくが、はじめの2代だけ古事記と比較してみた。 日本書記ではカムヤマトイワレヒコの没年齢は127歳(古事記では137歳)。2代目のカムヌナカワミミは 45歳で即位したことになっている。カムヤマトイワレヒコが82歳のときの子供ということになる。没年齢 は84歳(古事記では49歳)になっている。まあ、このいい加減さには、まさにあいた口がふさがらない。

 さて「対話・日本の原像」には巻末に、対話で取り上げられた 話題について、吉本さんが「註記」と題する補足を書いている。 その中の「信仰・祭祀」に関する部分を読むことにする。これは「第323回」(7月6日)の 続きということになる。ヤマト王権の「信仰・祭祀」とそれ以前の「信仰・祭祀」との関係から ヤマト王権の出自を考えるというモチーフがある。もちろん確定的なことは何もいえない。 しかし問題の核心がどこにあるのか、その全体像はイメージできる。

 ここには日本列島の住人の種族における南北問題と、縄文期、弥生期を貫き初期古墳期にいたる歴史時間 の問題が複雑にからみあっていて、神話、伝承、地域信仰や習俗を解き分けてゆかなければ、とうてい一義 的な確定が得られそうもない。この問題を具体的に整理してみる。

(1)
 諏訪地方に諏訪神社を中心とした大祝祭政体が成立していたことが、比較的よく研究されている。 このばあい男性の生き神大祝と随伴する共同体の政事担当者の起源の関係は、神話の伝承に入り込んでおり、 時代を降ってまた中世・近世の態様も比較的よく知られている。

(2)
 神話伝承の最初期の天皇群(神武から崇神まで)の祭政の在り方は、『古事記』『日本書紀』の記載の読み 方によっては、長兄が祭祀を司り、末弟(またはそれに準ずるもの)が政治を司る形態とみられなくはない。 これらは次第に皇后が神事を司り、天皇が政治を司る形、皇女が分離した祭祀を司る形へと移行する。

(3)
 おなじように長兄が祭祀を司り、生涯不犯の生き神として子孫をのこさず、弟が共同体を統括する形は、瀬 戸内の大三島神社を中心とする祭司豪族河野氏の祖先伝承として存在するとされる。

(4)
 沖縄地方では姉妹が神事を司り、その兄弟が政治を司るという形態が古くからあり、聞得大君の祭祀的な村落 共同体の統轄にまで制度化された。

(5)
 樹木・巨石の信仰は、日本列島の全域にわたって遺跡が存在する。諏訪地方における諏訪神社信仰。三輪地方に おける三輪神社信仰。高千穂地方における岩戸神社信仰。沖縄における御岳信仰。これらは神話や伝承に結びつい ているが、その他制度化されていない形で無数に存在する。そしてこの信仰は狩猟や木樵の祭儀の形態と農耕祭儀 の形態とを重層しているばあいもあれは、狩猟だけ、農耕だけの祭儀に結びついているはあいもある。

(6)
 神話、伝承の考古学的な対応性ともいうべきもの、また民俗学的な対応性ともいうべきものが存在する。それは 縄文期、弥生期、古墳期のような区分が、日本列島の地理的な条件の上では、地勢の海からの標高差に対応している 面があるからである。狩猟、木樵、漁業、農耕(水稲耕作)などの差異は、地勢上の標高差の問題と対応し、縄文、 弥生、古墳期のような歴史以前と歴史時代初頭の問題との対応をもっている。


 何の構想もないままに「日本」をテーマにはじめたこの稿はいま、「歴史以前と歴史時代初頭の問題」をめぐって迷子 になっている。ヤマト王権の「倭の五王」以前が空白のままだ。そこが空白のまま「古墳時代」になってしまう。 今手元にある日本史関係の本をめくってみても、その問題を避けているか、取り上げていても満足できる論はない。
 吉本さんがまとめた上の五つの問題へのアプローチは、その空白に近づく一つの道筋になると思われる。特に(6) に注目したい。私がいう「空白部分」はまさに「歴史以前と歴史時代初頭の問題」にほかならない。そこでは「神話・ 伝承」と「考古学」、「神話・伝承」と「民俗学」の対応が重要な問題ということになる。

 「神話・伝承」と「民俗学」の対応の一つとして、吉本さんは柳田国男の例をあげている

 わたしたちはこの問題について民俗学者柳田国男を論じたとき、柳田国男が民俗学の眼から神 話をみていた視点を想定して、つぎのように述べたことがある。柳田国男のばあいには、この種 の対応は、海流と航海技術と造船技術が、神話とのある対応関係にあるとみなされていた。

 このところには柳田国男の『記』『紀』神話にたいする微妙な異和と同和とが同時にふく まれている。始祖の神話の持主である初期王権が、いわゆる「東征」といわれたものの起点を南 九州(もちろん日向の沿海であってもいい)においているところまでは「船」を仕立て直す休 息点(あるいは「日本人」が成長してゆく熟成点)として、柳田の「日本人」がはしってゆく 流線と、一致できるものであった。

 だがそこから瀬戸内海にはいる経路と土佐国の沿岸を連ねる経路とのあいだの〈分岐〉〈異和〉 〈対立〉は、柳田のいわゆる常民「日本人」と初期王権の制度から見られた「日本人」との絶対的 差異として、柳田の容認できないところであった。

 初期王権が『記』『紀』のなかで始祖神話の形で暗喩している支配圏や生活圏の版図は、北 九州から南九州にわたる沿海地帯と、瀬戸内海の四国側寄りの沿海地帯や島々にかぎられてい る。わたしのかんがえでは、柳田国男はこの神話の暗喩する版図になみなみならない親和感を いだいていた。この親和感が、南九州(日向沿岸でもよい)のどこかで南西の島から東側海岸 に沿ってやってきた柳田の「日本人」が、「船」を整えなおしたというかんがえに愛着した理 由だとおもえる。

 またしいていえば柳田が、本来無意味なのに、じぶんの常民的な「日本人」の概念を、制度や 王権の問題にまで無造作に拡大して、朝鮮半島を南下したいわゆる騎馬民族が初期王権に坐った という説に、抜き難い不信を表明した理由であった。
 もうすこしくわしくできるだろうが、柳田のいう「日本人」は、地上二米以下のところしか歩 いたり、走ったり、願望したりしない存在だから、制度や王権にかかわりない、まったくべつの 概念であった。
          (吉本「柳田国男論」第Ⅰ部「国文学 解釈と教材」29巻9号、59年ア月号)

 整理しなおすと次のように言っていると思う。
柳田の「原」常民は宝貝を求めてはるか南の方からやってくる。南九州で「船」を仕立て直した 「原」常民は「土佐国の沿岸を連ねる経路」を通っていくはずである。しかるに「記紀」神話が 描く経路は「瀬戸内海にはいる」。「北九州から南九州にわたる沿海地帯と、瀬戸内海の四国側寄 りの沿海地帯や島々」という「記紀」神話が描く支配圏・生活圏を柳田は原「常民」の版図と考え たいのだが、ヤマト王権がたどる経路が柳田の「原」常民の経路と整合しない。その矛盾は、もと もと、「制度や王権にかかわりない」常民という概念を「制度や王権の問題にまで無造作に拡大」 したためだ。
スポンサーサイト



 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/595-22c69537
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック