2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
596 唯物論哲学 対 観念論哲学(18)
宗教的自己疎外
2006年9月3日(日)


 宗教的自己疎外についての詳しい論述を読んでみたい。

(ということで、今回のお手本は『認識と言語の理論第一部・第2章 7「宗教的自己疎外」』です。)

 まず、人類が創り出してきた神々を概観して、自己疎外と言う言葉の理解を 深めておきたい。

 人類がまだ原始的な生活をいとなんでいた頃、自然についての認識には多く の空想が入りこんでいた。そのために太陽・月・火・風・雨などの自然 の事物にはそれぞれをつかさどる神がいると考えた。そして火山・雪崩・洪 水・落雷などの自然力の作用も、超自然的な存在である神の怒りのあらわれで あり、神の意志によって起ったのだと神秘的に解釈された。人間の外部 から人間の生活に影響を及ぼしてくるさまざまな自然の存在を認めながらも、 それらを人間のありかたに擬して、それらの活動を人格化して解釈した。

 生命は神によって授かるのであり、死は死神の訪れによって起るのだという 説明や、男と女とがむすばれるのは縁むすびの神のひき合せによるのだという 説明や、さらには貧しくて不幸な状態や富んで幸福な状態も神の意志によるの だという説明も、ひろく信じられるようになった。

 この自然の事物の擬人化と平行して、人間自身もまた神となっていった。人 間の脳の機能である表象や思惟なども「霊魂」よいう体の中に存在している 特殊な実体の機能と解釈された。そして、人間が死ぬときにはこの「霊魂」が 人間の身体から出ていくと説明された。

 また、夢の中で人びとの姿をながめ、その人びとが生きていたときと同じよ うに行動したり語りかけて来たりするのは、その身体から出ていった「霊魂」 にわれわれの夢の中に入ってくる能力があってわれわれに働きかけてくるから だと説明された。

 そうすると身体から出ていった「霊魂」には、身体の中に存在しているとき よりもさらに神秘的な能力があるということになる。生きているときに偉大な 才能を発揮した人びとの「霊魂」はこの意味で絶大な能力を持つものと考えな ければならなくなる。この人間の外部から人間の生活に影響をおよぼしてくる 人間よりも優越した存在が、神となっていった。

 自然の事物を擬人化するということにしても、これは自然の事物が感情や意 志を持つものすなわち「霊魂」を持っているものとして扱うことにはかならな い。この自然の「霊魂」は人間とのコミュニケーションを可能ならしめるわけ であり、人間の願いを聞いて雨を降らしたり風を止めたりすることができるの だと解釈されたのである。自然の「霊魂」も人間の身体から出ていった「霊 魂」も、このようにしてさまざまな神々となっていった。

 日本の風神や雷神も、ギリシァ神話の神々も、あるいはヨーロッパの伝説に 出てくる木の精や山の精も、すべて人間と同じような外貌を持ち同じような 服装をつけて登場してくる。そしてこれらが「霊魂」のありかたであり、また 人間の身体からも「霊魂」が出ていってこれらと同じ神々になるということ を、ひっくるめて人間の宗教的自己疎外という。それは人間の持っている本 質や機能やすがたかたちが頭の中で観念的に人間からひきさかれ、これらが 空想的に人間の「外部」に持ち出されたということです。

 いまでは風神や雷神を信じる人は皆無だと思う(もしかしているかも?)。 にもかかわらず、同じ自己疎外の産物である「貧しくて不幸な状態や富んで 幸福な状態」を左右する神や仏、あるいは時空を自由自在に行き来する超能 力的「霊魂」を信じる人はいまだに多い。ただただあきれるほかない。

区切り線

 さて、自然宗教から一神教へと宗教が変貌していく筋道を考えてみよう。

 自然の事物を擬人化して創り出された自然宗教の神々はそれぞれ自然の事物 のありかたに規定されて、それぞれ限界を持つことになる。神々はいわばそれ ぞれの縄張りがあって自己の縄張りを超えて能力を発揮するわけにはいかな い。火の神と水の神とは、自然の事物のありかたに規定されて、対立を押しつ けられることにもなる。死神に生命を誕生させる能力はない。

 この自然の事物の擬人化も、個人的なかたちを与えられるだけでなくさらに 社会的なかたちをとり、人間の集団のありかたを空想的に神のありかたに持ち こむことも行われていく。雷神にもやはり女房があり子どももいるというよう に家族のありかたが持ちこまれる。神々に対してそれを支配するもっとも偉大 な大神が存在しているというように、人間の社会の権力者のありかたも持ちこ まれる。

 そして、縄張りに固定されて能力を制限されている多くの神々から、 縄張りを超えて無限の能力を持つ神へと抽象化がすすんでいくと、結局のと ころ宇宙全体を支配下におくところの万能の神という考えかたに落ちつくわ けです。いわゆる一神教です。

 キリスト教この段階の一神教です。しかしこの万能の神にしても、決して孤 独な存在ではない。神の原型である人間が孤独な存在ではなくすべて家族の 一人として存在しているという人間のあり方が、神のありかたにも空想的に 反映する。つまりそこには聖家族が存在する。「三位一体」とよばれる父・ 子・精霊の関係が説かれる。さらに聖母マリアすなわち母が加えられること にもなった。

区切り線

 いまだに生き残っているさまざまな宗教がある。それを信じている人たちの それぞれの宗教との関わり方も一様ではない。宗教に入り込むとき、イデオロギー的に入りこんでそこから生活全体を規定 させていく場合と、生活的・儀式的に入りこんでイデオロギー的にはそれほど 深い関心を持たない場合とがある。

 前者が正しい意味の信者です。しかし、この場合は一つの宗教を信じることが他 の宗教を拒否する方向へとすすんでいく。キリスト教の神を信じるとすれば、 天皇を神として認めよといわれても拒否しなければならない。ある万能の神を 信じる以上、それと異った万能の神の存在を主張する宗教に対しては、イデオ ロギー的に敵対する立場に立つからであり、それは邪教だということになるか らである。

 後者の場合には、儀式に熱心に参加するところからかたちの上では熱烈な信 者に見えても、イデオロギー的に入りこんでいないために、その宗教の教理に 忠実に行動するとは限らない。また、他の宗教を特別に邪教だとも思わない。 家では毎朝仏壇をおがみ、自家用車には成田山のお札をはって交通事故の起ら ぬよう祈りながら、結婚式のときは教会でキリスト教の神の前に誓いを立て、 新婚旅行では神宮に参拝するというような宗教生活も、現実に行われている。 教理的に相いれない二種類以上の神々を、事実上認めているわけである。日本 人の宗教生活は、このような重層信仰において特徴的である。

スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/591-07c6aef6
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック