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330 「日本」とは何か(22)
ヤマト王権の出自(3)
2005年7月13日(水)


 三浦つとむさんの著書に「レーニンから疑え」(1964年刊)という本がある。まだレーニンの権威が 絶対的だったときに堂々とそのような書名をかかげた。三浦さんの独創的な仕事は、たぶんこのような 権威への懐疑精神のたまものではないだろうか。ちなみに、三浦さんに先駆けてレーニンの誤謬を 取り上げた津田道夫著「国家と革命の理論」(1961年刊)は、レーニンの権威にしがみついていた さる筋の圧力により、書店での入手ができなくなってしまったということだ。
 どの分野でも権威に縛られていてはそれ以上の発展は望めない。権威のたなごころの中で視野は 狭くなる。勿論むやみやたらに権威を否定するわけではない。それでは単なる暴論に過ぎなくなる。 継承すべきところは敬意をはらって継承しなければならない。ただ権威のたなごころの中では説明 し切れない問題を解決するために行う必然の成り行きとして否定する。これまでこの「対話」 では金田一京助、柳田国男などの権威との検証が行われてきた。
 記紀の神話をまったくのフィクションとして古代史解明の資料から退けるのは津田左右吉の権威 だろうか。梅原さんは記紀の神話に歴史の投影があり、痕跡が残されていると考えている。しかし そのことをまったく留保なしに前提することへの危惧も念頭において発言している。
 それを認めても、決して国家主義の史観にはならないのではないか。天皇家の祖先が日本列島 にやって来る以前から日本人があり、日本文化があった、そう考えさせるものがすでに記紀の中 に秘かに含まれているのじゃないか、という気がしてしょうがないんですね。柳田国男とちがっ て記紀神話を、天つ神の方からでなく国つ神の方から読むことが可能ではないでしょうか。

 「天皇家の祖先が日本列島にやって来る以前から日本人があり、日本文化があった」という くだりの「日本人」「日本文化」は、もちろん「縄文人」「縄文文化」と読まれるべきだろう。 また「天つ神の方からでなく国つ神の方から読む」という読み方により新たに開けてくるものが あるかもしれない。梅原さんの仮説を聞いてみよう。
 そして、それは南九州の権力が大和に攻めてきたということになっている。文化的にみると、 北九州は弥生時代にすばらしい文化をもっているわけで、北九州文化圏あるいは大和文化圏と二 つの文化圏があって、弥生時代の末になって一つに統一される、ということが大体いえるわけで すね。そこで和辻(哲郎)さんは、北九州権力が大和に攻めてきて、統一したのではないかと考 えている。私もそういう考えでしたが、だんだん記紀神話どおり、北九州権力ではなく南九州権 力が大和へ攻めてきたと考えた方がいいのではないかと考えるようになってきた。
 大体、そういう言葉があるように、金持ちはあまり喧嘩しないもんでね(笑)。アレキサンダー とかジンギスカンのように、遠征したり冒険したりするやつは、みんな貧乏でハングリー精神を もっている(笑)。だからおおよそ弥生末期にいわゆる天孫族が外国から日本に入ってきたとして も、北九州のいいところは全部、先に来た部族に押えられていて南九州にゆくより仕方がない、 そして南九州は環境的にとても不利なところですよ。ああいう所で農業をしていたら食っていけ ないに決まっているから、そこで大きな賭に出た。今でも薩摩の人は気が荒い。おくればせに日 本にやって来た天孫族とアマ族との混血の部族集団が大和へ攻めてきたと考えてよいと思う。
 そして、宮中儀式に使ういろいろなものは、南のものが大変多いですね。例の仁徳天皇の豊楽 の式のときに、紀州でも南の新宮地方にしか出ないようなミツナガシワが必要になって、それを 求めるために仁徳天皇の皇后のイワノヒメが紀州に行く。すると、その間に天皇はワカイラツメ と浮気をしていた。カシワの葉を船に積んで帰ってくる途中でその浮気のことを聞いたイワノヒ メは、怒って摘んできたカシワをみんな海へ捨てたという話がありますけど、そんな南にしかな いものが即位の式に必要だということは、やはり南方説をどこかで裏付けているような気がしま すよ。だから僕は、そういう意味で、記紀神話というのが意外に事実を忠実に伝えているのじゃ ないかと考えているんです。

 どうやら弥生人は稲と鉄とともに、中国大陸の殺戮・略奪・征服による富と権力の樹立方法を も携えてきたようだ。縄文時代の穏やかな暮らしは一変する。
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この記事へのコメント
なお出雲へ
いま、薮田絃一郎著「ヤマト王権の誕生」が密かなブームになっていますが、それによると大和にヤマト王権が出来た当初は鉄器をもった出雲族により興されたとの説になっています。
 そうすると、がぜんあの有名な出雲の青銅器時代がおわり四隅突出墳丘墓が作られ鉄器の製造が行われたあたりに感心が行きます。当時は、西谷と安来の2大勢力が形成され、そのどちらかがヤマト王権となったと考えられるのですがどちらなんだろうと思ったりもします。
2008/10/15(水) 00:41 | URL | 安河 #-[ 編集]
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