2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
436 「アイデンティティ」について(4)
他者への眼差し
2006年2月12日(日)


 前回の論旨をもう少し詳しくたどってみる。まず公理2について。
 公理2は「一番大きなパイを得たい」という「エゴイズム」が人の「原初状態」での偽らざるありようだといっていると思う。私は自分自身を振り返って、この仮定を肯定せざるを得ない。
 しかしその「エゴイスト」には『一般の全ての社会的事実を知っている』という条件がついている。
 すなわち、社会にはさまざまな差別や不幸があることを知っている。それらはときには他者の環境であるとしても、同時に自分をとりまく環境でもある。他者と自分はいつでも入れ替わる可能性がある。エゴイズムの中に閉じこもっているわけにはいかない。「他者への眼差し」が必然であり、原初状態でのエゴイズムはそこに留まることなく、他者へと開かれていく。


 「無知のヴェール」のもとでは、自分がいったいなんであるかをまったく知らないのだから、いつでも、他者は自分自身と入れ代わることが可能な存在である。この他者の環境が存在しつづけ、しかもそれはけっして固定することなく、次々と新しい他者の環境があらわれるのであれば、自由の創出のシステムは、けっして閉じることなく、他者の回路をとおして、他者の環境へとひらかれていくことになる。その結果、私たちは、この世界を、「原初状態」をとおして、他者とともに共有することになるのだ。
 この他者の環境の不確定さは、私たちが「原初状態」で行う選択を、さらに普遍的なものにするだろう。いかなる自由の抑圧も認めることはできないからである。そこに例外があるならば、その例外はいつでも自分にふりかかる可能性がある。

 こうして、私たちは、現実の他者の環境にコミットすることになる。自分のエゴイズムは、反転して、他者への配慮に変わる。他者は、自分であるからだ。しかも、けっして他者は、私と同じではない。不確定な変数として残りつづけるのが、他者である。

 ここでは、私たちは、他者への同情や情緒から、他者との共生を考える必要がない。私たちの自由が、神からの施しではなかったように、他者へのかかわりが、社会による施しであるわけがない。それは私たちの選択と自発的なコミットメントによるものなのだ。

 他者の問題を、自分の問題として考えるといった、世間のルールは、ロールズの正義論のなかで、正義の原理を選択する条件の自己創出としていわれたことになる。


 定理1:正義の第1原理(誰もがパイを平等に配分することを選ぶ。)は同情や哀れみに由来するのではなく、必然の選択である。信仰上の義務的な施しとは異なる。ましてや、社会的不平等の上にあぐらをかいて行う貴族や資産家の同情や哀れみに由来する慈善という名の施しとはまったく異なる。

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