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325 「日本」とは何か(17)
天皇制の古層(5)
2005年7月8日(金)


 記紀歌謡の中には近世以来のこじつけに近い解釈が多くある。このことと 山窩が結びついて思い出したことがある。
 吉本さんは著書「共同幻想論」で柳田国男の「遠野物語」や「記紀」の神話の他に三角寛の 「サンカの社会」 を素材に用いている。その「共同幻想論」の「規範論」に、古事記の中の次の 歌の意味について論じているくだりがある。

 夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁徴爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁(やくもたつ いずもやえがき つまごみに やえがきつくる そのやえがきを)

 通説ではこの歌を
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」
と読み下している。そしてその意はおおよそ「八雲の幾重にも立ちのぼる出雲の宮の幾重もの 垣よ。そこに妻をむかえていま垣をいくつもめぐらした宮をつくって共に住むのだ」とするのが 通説だ。

 学者たちは何故そのような読解と解釈をしたのか。
この歌は、「天津罪」を犯して高天原を追放されたスサノオが出雲を平定し、その地に宮を作ったという 物語に挿入されている。

 故ここをもちてその速須佐之男命、宮造作るべき地を出雲国に求ぎたまひき。 ここに須賀の地に到りまして詔りたまひしく、「吾此地に来て、我が御心すがすがし。」との りたまひて、其地に宮を作りて坐しき。故、其地をば今に須賀と云ふ。この大神、初めて須賀 の宮を作りたまひし時、其地より雲立ち騰りき。ここに御歌を作みたまひき。その歌は、
 夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁徴爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁
ぞ。

 「其地より雲立ち騰りき」という物語の地の文にとらわれてのことであるのは明らかだ。 勿論これは古事記の編者の意図であっただろう。
しかし、記紀の歌謡については、物語の部分とは別個に考えなければならない場合が多いこと が一般に認められている。伝承の歌があってそれをもとに物語が作るられたり、物語の前後の 関係からその物語にうまく会う伝承歌を挿入されたりした可能性があるのだ。

 実はこの歌はサンカの社会にも伝承されていて、サンカの解釈はまったく違うという。吉本 さんが「サンカの社会」から引用している部分を孫引きする。

サンカは、婦女に暴行を加へることを「ツマゴメ」といふ。また 「()込めた」とか、「女込んだ」などともいふ。 この「ツマゴメ」も、往古は、彼らの得意とするところであった。そこで、「ツレミ」(連身) の( ヤヘガキ)ができて、一夫多婦を禁じた。 それが一夫一婦(ツ レ)制度(ヤヘガキ) である。

 ここで問題になるのは、古事記・日本書紀に記された文字と解釈である。すなはち、

(古事記)夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都麻碁微雨夜幣賀岐都久留骨能夜幣賀岐衰
(日本書紀)夜句茂多菟伊都毛夜覇餓岐菟磨語妹爾夜覇餓枳菟盧贈廼夜覇餓岐廻

 右に見るやうに、両書は、全く異った当て字を使ってゐるが、後世の学者は、次のやうに解 釈してゐる。

八雲立つ 出雲八重垣妻ごみに八重垣作るその八重垣を

と、決定してゐるやうであるが、サンカの解釈によると、(昭和11年、富士山人穴のセプリ外 18ヶ所にて探採)次の通りである。
ヤクモタチ(ツ)は、八蜘昧断ち(つ)であり、暴漢断滅である。イヅモ、ヤへガキは、平 和を芽吹く法律で、ツマゴメ(ミ)ニは、婦女手込めにし、である。ヤへガキツクルは ( ヤヘガキ)を制定して、コ(ソ)ノヤへガキヲ、はこの ( ヤヘガキ)をこの守る憲法を―で、これが「一夫一婦」の ( ヤヘガキ)である。
 それで出雲族を誇示する彼らは、自分たちのことを、「沢瀉(おもだか) 八蜘蛛断滅」だと自称して、誇ってゐるのである。


 吉本さんは「サンカの伝承の方が確からしく思われてくる」と言い、その理由を次のように述べて いる。
 なぜこういう解釈に吸引力があるかといえば、スサノオが追放されるにさいして負わされた〈天 つ罪〉のひとつは、農耕的な共同性にたいする侵犯に関しており、この解釈からでてくる婚姻につ いての罪は、いわゆる〈国つ罪〉に包括されて土着性の濃いものだからである。『古事記』 のスサ ノオが二重に象徴している〈高天が原〉と〈出雲〉における〈法〉的な概念は、この解釈にしたが えば大和朝廷勢力と土着の未開な部族との接合点を意味しており、それは同時に〈天つ罪〉の概念 と〈国つ罪〉の概念との接合点を意味していることになる。

 「規範論」はこのあと「〈天つ罪〉の概念と〈国つ罪〉の概念との接合点」を論究していく。
 久しぶりに「共同幻想論」をひもといて、もう一度、今度は精読しようと思ったが、 今はこれ以上深入りしない。
 前回、梅原さんが「こういう記紀史観が当時の日本人の共通の史観になっていた。それに柳田 さんも影響されているのではないかと思います。だからどうしてもアマツカミ、主体の歴史観 だった。われわれは今は、クニツカミを重視した歴史観を考えていかねばならないと思います よ。」と言っていた。上記のような記紀歌謡の洗い直し、あるいは記紀の神話の古層の掘り 起こしはそのことと別のことではないと思う。網野さんのお仕事もその線上にある。
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この記事へのコメント
最近の出雲考古学
いま、薮田絃一郎著「ヤマト王権の誕生」が密かなブームになっていますが、それによると大和にヤマト王権が出来た当初は鉄器をもった出雲族により興されたとの説になっています。
 そうすると、がぜんあの有名な山陰の青銅器時代がおわり日本海沿岸には四隅突出墳丘墓が作られ鉄器の製造が行われたあたりに感心が行きます。当時は、西谷と安来-妻木晩田の2大勢力が形成され、そのどちらかがヤマト王権となったと考えられるのですがどちらなんだろうと思ったりもします。
2008/10/26(日) 20:20 | URL | 大和島根 #-[ 編集]
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