FC2ブログ
2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
324 「日本」とは何か(16)
天皇制の古層(4)
2005年7月7日(木)


 縄文文化と弥生文化を対比するとき、その違いは非農耕民と農耕民の違いに還元される部分が 多いと思う。そして非農耕民と農耕民という場合、縄文人と弥生人という対比の外にもう一つ 考慮すべきことがある。「山の民」と「里人」の対比である。

 山の民=山人とは何か。
 私たちは普通「山人」というと、木地師や 木樵などと呼ばれている人たち、さらに は狩猟を仕事とする 「マタギ」や「山窩」と呼ばれている人たちを考えると思う。しかし山人研究をしていた柳田国男は、 放浪の鍛冶屋とか 鉱山師、あるいは放浪の修験者とか放浪の宗教者みたいなものも山人として考えてい たらしい。

 柳田は山人研究を半ばにして放棄しているが、これについて梅原さんが次のように言っている。

吉本 柳田さんはそれ(山人)を異人種、人種が違うと考えていたんでしょうか。

梅原 初期にはそうでなかったと思いますね。『山人の研究』で「自分の生まれたところは昔、 異族が住んでいたところだと『播磨風土記』にある記事を見て、自分も山人の子孫の血が入って いるのじゃないかと思った」という意味のことを言っている。それが彼にはショックだったと思 いますね。だから彼はたいへん厭世的になり、民俗学の研究に入っていく。あの玉三郎が演じた 泉鏡花の『夜叉ケ池』で竜の女と住む学者は柳田さんがモデルだといわれているくらいですから ね。自分の血とつながっているそういう山人の文化のすばらしさを明らかにし、里人をおどろか してやろうという気特が、山人の研究に入っていった彼の気持であり、それが『遠野物語』にな ってゆく。彼の民俗学の出発点は明らかに「山人研究」「異族研究」なのです。
 しかし柳田さんは大正六年頃を境として変った。山人研究は完成しなかった。おそらく私は、 幸徳事件などが間接的な原因と思います。山人研究を続けていたらたいへんなことになると心配 し、それは天皇制とぶつかって危険だと、官僚でもある柳田さんはそこで転向し、山人研究から 里人、つまり常民の研究者となる。自分を山人じゃなくて里人と一体化する。そこで新しい柳田 民俗学が生まれたと思います。そういうふうに、柳田さんには微妙な転換があるような気がします ね。だから、初期の柳田さんはアイヌに対する関心が非常に強かったのだけど、どこかの段階 で捨ててしまった。柳田さんを考えるときに、そのへんがいちばん大事になってくるのじゃない か、と私は思うんです。


 山人研究から常民研究への柳田の転向の理由を幸徳事件と結びつけるのは、私には穿ち過ぎの ように思える。しかし、そういう結びつきを想像できる要素が山人研究には濃厚に含まざるを得 ないのは確かだ。

 吉本さんと梅原さんの対話は、天皇制の基盤である農耕民とその古層の狩猟採集民との関係 を神話から読み解く議論に移っていく。

吉本 そういうところから考えますと、柳田さんは何を日本人というふうに見ていたのでしょう か。
 『海上の道』でもそうですが、よくよく突きつめてみると、柳田さん流にいえば、稲作をもって 南の島からだんだんと東北の方に行った、そういうものを日本人と呼んでいるみたいに思えます。 これではとても狭い気がしますね。そうすると、ほとんどが日本人じゃない、ということになり そうな気がしてくるところがあるんですが、それはどうでしょう。

梅原 柳田さんは農林省ですか、勤めていたのは。

吉本 農商務省ですね。

梅原 やはり農商務省の役人としての職業意識が強くなると、どうしても日本を農業国と考える。 稲作農耕民の渡来によって日本の国はできたと考えた。しかしその背後には記紀史観の影響があると思 いますね。
 アマテラスオオミカミ、というのは明らかに農耕民族の神だし、その孫のニニギノミコトも農耕 民族として日本の国に来た。ところが土着のクニツカミ、というのがすでにいた。たとえばオオヤ マヅミというのは山民ですし、ワダノカミというのは漁撈民でしょう。ニニギとその子孫が、そ のオオヤマヅミやワダノカミ、の娘を娶った曾孫が神武天皇です。ですからあの神話は、農耕民が やってきて、山地狩猟民や漁撈民と混血して、日本民族ができたということを物語っている。
 日本人は渡来の農耕民が土着の狩猟民を支配してつくった国家だ――こういう記紀史観が当時 の日本人の共通の史観になっていた。それに柳田さんも影響されているのではないかと思います。 だからどうしてもアマツカミ、主体の歴史観だった。われわれは今は、クニツカミを重視した歴史 観を考えていかねばならないと思いますよ。

 しかし記紀のニニギから以後の九州での話は、事実そのままではないとしても、日本人の成立 の過程についてたいへん正確に語っていると思われます。渡来した稲作農耕民を父系、土着の狩 猟採集民を母系に、その二つの混血によって日本人はできてきたということをその神話は示して いる。そのために出産のときにトラブルが起きたりする。文化が違うと出産がいちばん問題だと 思います。出産のときに必ず文化のトラブルが起きてくる――そういうものを、とてもうまく語 っていると私は思いますけれどね。


 次いで、「マタギ」と「山窩」の社会習俗や宗教が話題となる。
吉本 それから、柳田さんのいう山人の中に事実として、たとえば山の中腹から煙が立っている のを見て、「あれは山窩の人がまたやってきたんだ」というような言い方で出てくるけれど、山 窩というのは、つまり山人のうちにどういうふうに位置づけられるのでしょうかね。

梅原 まあ、柳田さんを読むとびっくりするのは、大正天皇の御大典のときに、京都の若王子の 山の中腹から煙が出ていた、あれは天皇の即位を祝って山人がたいた火の煙だと書いてあるんで すね。僕は若王子の山裾に住んでいるんで、どうしてそんなことを柳田さんが考えたか、びっく りしてしまいますけれど。(笑)

 山窩とかマタギという人たち――山窩とマタギとはどう違うのか。マタギというのは東北に住 んでいる狩猟民で、山窩というのはもうちょっと中部の山岳地帯に住んでいる狩猟民ですね。マ タギのほうがまだ農耕民との間の、ある種の友好関係があるけれど、山窩は差別され非常に迫害 されていた、と考えていいのではないでしょうかね。

 ところがマタギ社会ですけど、ご承知のようにカメラマンの内藤正敏さんがダムで埋没する新 潟県のマタギの社会を撮っていますね。この間、私も山形県の小国町という所のマタギ部落へ行 って、マタギの熊祭を見てきましたよ。マタギ部落というのはもうどこでもほとんどなくなって しまいましたが、まだそこには少し残っているんです。
 熊を獲るのに、今はライフルですから、かなり遠い所からでも撃てるはずなんですよ。ところ が、そんなふうにパッと撃たないで、やはり勢子が出て、熊を下の方から追い上げ、一の鉄砲、 二の鉄砲、三の鉄砲が待ちうける。そしてずーっと追い詰めてきて、一の鉄砲から順に撃って行 く。武器がすっかり近代的に変っても、昔、熊を追い込んで、槍で仕止めるのと同じ方法でやっ ているんです。

 ここにどうしてマタギ社会が残ったのかというと、彼らは片方で農耕をやっている。冬になっ て農耕ができなくなってからマタギの生活に入るんですね。ふだんは農耕をやって、冬の間だけ マタギですから、かえって純粋に残ったのです。
 そこでいろいろ聞きましたけど、完全な共産社会ですね。分配が実に公平です。つまりマタギ の親方を能力によって、今度の熊狩りには誰がいちばんいいか相談して決める。一種の職能的な 秩序が完全にできていて、親方はご飯も炊かなくていいし、寝ていればいい。しかし親方の命令 には全部従う。その代り、親方は責任をもたなくてはならない――そういう形でやっているわけ です。ところが熊を獲って、熊の肉を分けるのはみんな平等で、狩りに参加できない未亡人とか 年寄りにもちゃんと平等に分けるんです。ですからマタギ社会は見事な平等社会で、長は機能に 応じてできる………というので、私は感動しましたね。

 そんな彼らが熊祭をしている。それがいつやるかというと、マタギをやめるとき、つまり熊が 冬眠からさめて出て来るときに熊を獲るわけです。ですから熊を獲り終ると春で、彼らはそれか ら農耕生活に入るんです。その熊祭もやはり、アイヌの熊送りに似ていました。熊の魂を天に送 るという、そういう意味が残っているようでした。同時に、熊祭を終えて、自分たちはこれから マタギをやめて農耕の生活に変るという、そういう意味ももっているけれども、どこかにアイヌ の熊祭の面影を保っていました。

 ところで、そういうマタギとか山窩――山窩はまたちょっと生活が違うと思いますけれども ――彼らの生活習慣を見ていると、ふつうには、山人はやはり異民族だと考えられるんじゃない かと思うんです。しかし、分配の見事な平等主義の社会を実際に見ると、やはり感動しましたね。

スポンサーサイト



 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/584-5167f17f
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック