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321 「日本」とは何か(13)
天皇制の古層(1)
2005年7月4日(月)


 どうやら、琉球・蝦夷とヤポネシア中央部との間の大きな断層とは、まったく無関係という意味の 断層ではなく、ヤポネシア全体に分布していた古層の上に、中央部だけ新来の人種が覆いかぶさって 新たな層=天皇制の基層を形作った結果である、と考えてよさそうだ。そうであれば、天皇制の基層 とその下の古層との関係を明らかにすることは天皇制を相対化あるいは無化する上で重要な課題とな る。

 「第314回」(6月28日)の引用文の中で梅原さんは、アイヌ語の魂を表す言葉ラマットが 祝詞や宣命に残っている古代日本語=倭語と一致していると指摘していた。日本文化の古層に あるアイヌ文化の痕跡を言葉の面からもう少し探ってみる。「対話・日本の原像」から拾い出す。 二つの第一級の思索が響きあう対話は気持ちよく読める。内容もとても興味深いものなのでそ のまま引用する。

 まず吉本さんが地名を二つ重ねる枕詞を論じている。枕詞については吉本さんは著書「初期 歌謡論」(枕詞論・続枕詞論)で詳細に論じているが、ここでは「初期歌謡論」を調べる労はとらない。 「対話・日本の原像」で話題にされたものでその大略を知ればよいとする。

 枕詞の中に地名を二つ重ねる枕詞がある。例えは「春日の春日」――「ハルヒノカスガ」と読みま しょうか ―― とか「纏向の檜原」とかね。これはとても古い、原型にちかいタイプの枕詞なん です。
 『古事記』に、ヤマトタケルが東国へ遠征してきたところ、海が荒れ、オトタチバナヒメが海に 飛び込んで海を鎮めるという話がありますね。そこのところで、オトタチバナヒメが「さねさし 相模の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも」という歌を詠んで飛び込むのですが、この 「さねさし相模」の「さねさし」というのは、どういう意味か全然わかっていないんです。アイ ヌ語に、陸地がちょっと海の方へ突き出た所という意味で「タネサシ」という言葉があって、僕は、 「さねさし」はアイヌ語の地名じゃないか、というふうに考えました。
 つまり相模もちょっと出っ張った所ですから、そこに昔、アイヌあるいはそれに近い人たちが 住んでいたときに地形から「タネサシ」というふうに言われていた。それをもうひとつ重ねて 「さねさし相模の小野に燃ゆる火の」とした。「さねさし」という枕詞はアイヌ語だとするのが一 番もっともらしいのじゃないか、そこのところで、柳田国男の地名の考え方にちょっと接触して いくのです。

 柳田は、アイヌ語の地名は自然の地形をそのまま名づけた所が多いのだという。なぜアイヌ語 の地名が残っているのかというと、それは単にそこにアイヌ人が住んでいたからではなくて、ア イヌ人またはそれに近い人たちが住んでいたときの地名があった所へ、後から移り住んで来た人 間がいる。先住民たちを完全に駆逐してしまったら、その地名はなくなってしまう。そこで地名 が残っているということは、アイヌ人たちと後から来た人間たちとが共存状態であったのだろう、 というふうに柳田は言っています。
 つまり、アイヌ語の地名という問題はそういう意味でとても大切なことになってきます。先住 民と後住の人とが異なった人種であっても、共存していたか、駆逐してしまって新しい地名をつ けたか、またはこの「さねさし相模」みたいに、枕詞の形で残したか ―― そういうふうに分ける と微妙にいろんな段階があって、それはとても重要なことだなと、たしか『地名の研究』の中で 言っているんです。

 これを受けて、梅原さんは次のように応答している。
 枕詞の発生はそういう二つの異言語の接触、いってみれば「春日の春日」というのは、「カス ガ」をどうして「春日」と書いたかという謎を説明しているわけですね。そういう言語の違う二 つの文化が接触して、そこで生ずる言語のギャップを枕詞によって埋めようとしたという説はた いへん興味深いのです。私もぼんやりそういうことを考えていました。「さねさし」は「タネサ シ」から来ているだろうとおっしゃるのは、きっとそうでしょう。「タンネ」というのはアイヌ 語で「長い」という意味で、「種子島」も「長い島」ですからね。アイヌ語で解ける地名が東北 地方に広がっているのは当然ですけれど、もっとはるか沖縄にまであるということは非常に重大 な問題だと思います。

 日本の真ん中にはなくて、北と南の両端にだけ残っている言葉がだいぶたくさんあるんですね。 例えば沖縄ではサンゴ礁と海の境目を「ヒシ」といいますが、アイヌ語でも、海と浜との境目 -海岸線を同じように「ピシ」というんです。ところが興味深いことには、『大隅風土記』に 必志の里というものがでてきて、その必志の里に「海の中の州は隼人の俗の語に必志という」と 註がついています。ということは、『大隅風土記』が作られた八世紀現在でもヒシという言葉は もう中央ではわからなくなっていたけれど、大隅の国では方言として残っていたということです。
 そうすると、ヒシという言葉はアイヌと沖縄に現在も存在し、本土では八世紀にわずかに大隅 地方の方言として残っていた、この問題をどう考えるかということです。いまの「タネ」の問題 でもそうですが、そういうのがたくさんありますね。たとえば「ト」という言葉はアイヌ語では 湖あるいは沼を意味しますが、古くは海を意味したと知里其志保はいいます。ところが『おもろ 草子』に「オクト」とか「オオト」という言葉が出てきますが、それは「奥の海」「大きい海」 を意味します。本州の「トネガワ」とか「セトノウミ」の「ト」も海あるいは湖の意だと思いま す。利根川は海のような川、セトはおそらくセプト、広い海ということになります。

 私も枕詞についてそういうことを考えることがあって、例えば「チハヤ」という言葉があるで しょう。「チハヤビト宇治」とか「チハヤフル神」とか、『古事記』には、「チバノカドノニ」と いう言葉がある。「チハヤフル」「チハヤビト」「チバノカドノニ」 ―― 全部神様につながってい るけれど、意味はよくわからない枕詞なんですね。
 ところが「チバ」というのは、アイヌ語では「ヌサバ」なんですよ。つまり神に祈る時にイナ ウというものを作るのですが、イナウが集まったものを「ヌサ」という。日本の古代語では御幣 そのものをヌサというけれど、アイヌ語では御幣の集合をヌサといいまして、ヌサのある所がチ バなんです。そうすると「チハヤフル」は神を祭るヌサのあるチバが古くからある、だから神に つく。「チハヤビト」というのはヌサ場で一族が集ってお祭をする、だから氏につく。「チバノカ ドノニ」というと、チバの多くあるカドノニ。平城京跡からたくさんイナウが出てきた。古代日 本にも到る所にチバがあったと思います。私はそういう解釈で、「チハヤフル」などの枕詞は理 解できるのではないかと思うのですよ。

 だから、おっしゃるように、そういう異言語の接触で、枕詞として古い言葉を残しておくとい うのはたいへん興味深い解釈で、いま言われた「さねさし」が「タネサシ」から、というのは私 は気がつかなかったのです。これは柳田国男の洞察に敬意を表したい。枕詞をもう一度、アイヌ 語で考えてみることは必要なんでしょうね。金田一(京助)さんのようなアイヌは異民族でアイ ヌ語は異言語、アイヌ文化と日本文化とは全くの異文化であるという通説、その通説について私 は批判しましたが、その通説のタブーさえなくなればいまのような解釈は十分成立可能だし、そ う考えることによって、日本の古代語研究は飛躍的に進むと思いますよ。
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