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595 唯物論哲学 対 観念論哲学(17)
観念論哲学と宗教の共通性
2006年9月2日(土)


俗流唯物論の認識論がカント主義の認識論にとって代わられた後、ヘーゲルが カントの認識論を鋭く批判しる。

 『大論理学』は、概念について次のように述べている。

「むしろ抽象する思惟は、単なる現象としての感性的素材を本質的なものに 止揚し還元するものであり、本質的なものは概念のうちでのみ自己を顕現す るのである。」

 ヘーゲルは観念論者だけれども、この論述はむしろ唯物論の認識論に近い。 ヘーゲルはさらに「判断における繋辞の本性」について、「主語について、 個別的なものは同様にまた個別的なものではなくて普遍的なものであると陳述 する」と述べている。三浦さんはヘーゲルのこの論述を次のように解説して いる。

 たとえば、「富士は山である」というときに、「富士」とよばれるのはそれ 自体個別的な存在であると同時に個別的ではなく普遍的な「山」とよばれる種 類の存在の一つでもあるということを、「である」という判断において表現し ているのである。

 言語はこのように、対象の事物の構造についての概念と判断を示すもので あって、言語が現実の世界を形成し言語が現象の性質をつくり出しているの ではない。ヘーゲルはさすがに唯名論的な発想にふみはずした現代の言語学 者のようなオッチョコチョイとちがって、さまざまな分野でその偉大な思想 家であることを示していた。


 18世紀の俗流唯物論の立場からする宗教批判はいわば「神などを認めるのは ナンセソスだ」というような宗教否認であった。これは結論としては正当で あっても宗教の形成される過程をなんら明かにすることがなく、真の宗教批判 とはなり得なかった。

 宗教的な精神活動のさまざまなあらわれを理論的に克服する論考は19世紀 の唯物論哲学者フォイエルバッハによってなされた。フォイエルバッハの宗教 批判は、宗教を形成する人間の能動的な精神活動に立入って検討している。 宗教批判は新しい段階へと進展した。

 フォイエルバッハは、思惟、表象、想像の中にのみ存在するものを 観念的に分離し対象化して、思惟、表象、想像の外に存在するものとして扱 うことができるという人間の能動的な精神活動すなわち自己疎外の過程を 解明した。

 彼(フォイエルバッハ)は『キリスト教の本質』と『哲学的改革のための 予備的テーゼ』において、神の木質を明かにするとともに神学とヘーゲル哲 学の共通性を指摘するのである。

「人間は自己の本質を対象化し、そしてつぎにふたたび自己を、このように 主体や人格へと転化され対象化された本質の対象とする。これが宗教の秘密 である。」

「神とは人間のもっとも主体的でもっとも固有の本質が分離され抽出された ものである。したがって人間は自分自身からは行為しえない。したがって、 すべての善は神から来る。神が主体的・人間的であればあるほど、人間はそ れだけますます多く自分の主体性と人間性とを外化する。なぜならば、神 そのものは人間の自己が疎外されたものだからである。」

「神学における本質は、超越的な、人間の外部に定立された人間の本質であ る。ヘーゲル論理学の本質は、超越的な、人間の外部に定立された人間の思 惟である。」

 フォイエルバッハはこのように、唯物論の立場に立って人間の能動的な精神 活動をとりあげ、神学およびヘーゲル哲学の論理構造を解明したのであるか ら、精神のちからによって現実の世界が形成されたとする観念論者に対して も、それならば無から世界が創造されたことになると嘲笑する。

「なぜなら、精神は無より以外のどこから物質的、物体的素材をとってくるの か?」

というわけである。そして、

「事物はそれが存在するから思惟されるのではなくて、思惟されるから存在す るのだと主張することを恥としないならば、……事物が存在するから言語があ るのではなくて、事物は言語のゆえにのみ存在するのだと主張することをも恥 としてはならない。」(『宗教の本質に関する講義』)

と観念論者の言語論をも嘲笑する。


 フォイエルバッハをうけてさらにマルクスは、宗教の批判を「一切の批判の 第一の条件」であるとした。

 現実の社会、現実の国家は、逆立ちした世界であるために、逆立ちした世界 意識である宗教はその道徳的承認でありその補完物として、維持され再生産さ れている。宗教の批判は現実の世界の批判・変革につながる。

「キリスト教は、ユダヤ教の崇高な思想であり、ユダヤ教はキリスト教の卑俗 な適用である。しかし、この適用が一般的なものとなることができたのは、た だ、キリスト教が完成した宗教として、自分自身および自然からの人間の自己 疎外を理論的に完成してしまってからのことであった。そうなってはじめて、 ユダヤ教は一般的支配の地位に達し、そして外化された人間と外化された自然 とを、譲渡しうる・売却しうる・商品、利己的な欲求に屈従し・きたない商売 の食いものになる・商品にすることができたのである。」(『ユダヤ人問題に ついて』)

 宗教と同じ観念的な自己疎外が法律その他のイデオロギーにおいて、さらに は現実的な自己疎外が経済生活において存在している。宗教の論理はこれらに 通じる。

「宗教の批判は、したがって、宗教を後光とするこの苦界の批判をはらんでい る。……宗教の批判は、人間の迷いをさまさせるが、それは、人間が目覚め た・正気にもどった・人間として、思惟し、行動し、自己の現実を形成する ためである。」(『ヘーゲル法哲学批判序説』)

 われわれが言語をめぐって論争している学者に向って、「一切の批判の第一 の条件」は宗教の批判なのだがあなたには宗教を正しく批判する能力がある か、と質問したなら、おそらくけげんな顔をされることであろう。マルクス 主義者と名のっている学者にしても、おそらく同じであろう。けれども多くの マルクス主義者が、言語についての科学的な理論をつくり出すことのできな かった重要な原因の一つは、ここにあったのである。

 宗教の幻想と芸術言語の幻想とが、法律とよばれる規範と言語における規 範とが、人間を支配し疎外をおしすすめているか人間の支配下にあるかのち がいはあっても、同じく能動的な精神活動の所産でありそれなりに共通した 構造を持っていることを予想して、フォイエルバッハからマルクスへの理論 の発展を理解しながら、それをふまえて解明をすすめようとはしなかったの である。

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