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320 「日本」とは何か(12)
縄文人と弥生人
2005年7月3日(日)


  吉本、梅原、中沢三氏の鼎談より8年前(1986年)に、吉本さんと梅原さんは対談をしている。 その対談が「対話・日本の原像」(中央公論社)という本になっている。今回から資料として 追加する。
 その本の中に梅原さんが日本語の源流について次のような意見を述べている。
 縄文人のつかう縄文語というのがあって、これはかなり日本列島全体に行き渡っていただろ う…‥。縄文土器が朝鮮半島にはほとんどないのに、日本列島にはほぼ全体に普及している。 そのように、だいたい同質の言語が南は沖縄から北は千島まで、多少のローカルカラーがあるけ れども、日本列島に普及していたのではなかったかと思います。
 そして弥生人が入ってきて日本列島の中枢を占領した。そして弥生人はまったく縄文人とは違 う言語をもってきたけれども、言語学の法則として、少数の民族が多数の民族の中に入ってきて、 それを支配する場合、その言語は被支配民族の言語になるが、発音その他は相当な変更を蒙り、 そして、支配民族が新たにもってきた新文化や技術にかんするものの名称は支配民族の言語で呼 ばれる、というふうな法則がある。こういうことが弥生時代以後、起こったのではないでしょう か。
 だから縄文語が弥生時代以来かなり変質した言語が倭人の言語であり、それが日本語の源流に なったのじゃないかと思うんです。そして南と北により純粋な縄文人が残っていて、縄文語がよ り純粋な形で生きのびて残ったのではないだろうか。琉球は朝鮮や中国とも近いから人種も混血 し、言葉もかなり変質しているけれども、あそこは稲作農業には不適な所なので、かなり強く縄 文文化が残っている。北の方は中国などとの交渉も薄いし、沿海州あたりとの接触があるにせよ 混血も少なく、縄文語がいちばん強く残った。それが小進化してアイヌ語になったと考えている んですけれどね。

 この梅原さんの仮説と考古学の成果を照らし合わせてみよう。
 近年、古代遺跡の発掘がいよいよ盛んで、古代像のさまざまな仮説・通説が書き換えられている。 その近年の考古学の成果をまとめた本がある。天野幸弘という方の著作で、こちらの書名は「発掘・日 本の原像」(朝日選書)という。
 この本から梅原さんの仮説に関係すると思われる部分をまとめてみる。もちろん、考古学 による学説もいまだに仮説レベルのものも多い。さしあたってはそれらの学説から古代の おおまかなイメージが描ければよいとする。
 まず縄文人について。
 東アジアで縄文人と似た人骨が判明した例は今のところない。ということは、特定の 集団が日本列島になだれこんで縄文人になった形跡はないわけだ。こう考えて、京都大学霊長類 研究所の片山一道教授(人類学)は科学誌『サイアス』(1997年5月2日号)に書いた。タイト ル「縄文人は来なかった」は刺激的だ。これまでに見つかっている縄文人骨の特徴を詳しく分析 したうえで、「縄文人は日本列島で生まれ、育った」と結論づけている。決着がついたとされる ルーツ探しより、これまでに数千体見つかっている縄文人骨の精査の方が大切だと考える片山さ んは、「混血しなくても体格が変わるのは、われわれ現代人も経験した通りだ。生活の変化も大 きな要素だ」。だから縄文人がどのように形づくられたか、生活の復元こそが問題だ、と強調す る。例えば「海民的な性格が加わるなど、大陸の人びととは別の道を選んだ結果なのだろう」。
 確かに、縄文時代は独特だ。その次の弥生時代から現代までの五倍弱、一万年近くも続いた。 ところが北海道から琉球列島に至るまで、人びとの体格などに地域による大きな違いはなかった。 地域差より、時代の推移に伴う変化の方が目立つといわれる。アメリカ人の生物学者エドワー ド・S・モースが東京の大森貝塚を発掘調査し、七体の縄文人骨を見つけて以来、120年間に わたる調査や論争、研究の結果である。そして、「縄文人は先住民などではなく、現代日本人の 祖先だ」というのが、大方の研究者の見解になってきた。

(中略)

    この年(1998年)、北海道の北西端の離島、礼文島にある船泊(ふなどまり) 遺跡でも、同じころの縄文時代の人骨約三〇体分が発掘された。サハリンやバイカル湖周辺で見つかる のと似た形式の貝製装飾品、日本列島南方産の貝製品も副葬されていたため、「縄文時代に大陸から来 た渡来者か」と注目された。先の片山教授の説と食い違いが出そうだったが、専門家の詳しい鑑定によ る結論は「すべて典型的な日本列島の縄文人」だった。もちろん、縄文人の活発な行動力を印象づける 発見として、重要な遺跡が新たに分かった意義ははかりしれない。


 弥生人は縄文人に比べて顔が細長く彫りが浅く、縄文人より長身だ。それまでの縄文人とかなり 異なる体格などから「渡来系」とされてきた。では弥生人はどこから来たのか。
 「土井ケ浜遺跡人類学ミュージアム」館長の松下孝幸さん(人類学)たちは中国社会科学院考 古学研究所の韓康信教授らと共同で、山東省出土の紀元前5世紀から400年間ほどの人骨500体分 を調べた。その結果「体の各部の計測データや顔面のプロポーションのほか、神経が通る頭の骨 の小さな穴といった細かい部分も土井ケ浜人とそっくりだった。」
 調査は新たに黄河、長江の最上流部の青海省へ舞台を移す。「人と文化はおそらく、中国では大 河に沿ってつながるに違いない。これまでの南北の流れとは別の『東西の道』を探りたい」から だ。中国原郷説への自信がのぞく。
 青海省での1998年までの日中共同調査でも、山東省に似た結果が出た。李家山など三遺跡から 出土した約3000年前などの人骨計約300体は、いずれも土井ケ浜や佐賀県の吉野ヶ里などから出た 渡来系弥生人骨の特徴をそなえていた。「黄河、長江上流の人びとが北部九州など一部の弥生人 の祖先だった可能性がある」という分析結果なのだ。
 1999年の共同調査では、長江下流の江蘇省梁王城(りようおうじよう) 遺跡と福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡出土の二体の人骨の、母系遺伝子に限定されるミトコンドリ アDNAの塩基配列がぴったり一致する例まで分かった。縄文時代の稲作伝播も長江との関係で考えら れており、重視されている。

 一方、縄文人そっくりの弥生人の人骨が発掘されている。 阪神・淡路大震災の被災者住宅の 建設に先立つ調査(1997年)のときに出土した人骨は、紀元前三世紀の前半、弥生時代前期のも のである。しかしその人骨は縄文人そっくりの特徴を示していた。典型的な弥生時代の遺物、遺 構の中から、土井ケ浜遺跡で見つかったような渡来系の人ではなく、弥生以前に一万年近くも続 いていた縄文時代の人の体つきの人骨だったのである。
 福岡県志摩町新町遺跡から出土した人骨も「縄文的な弥生人」だった。しかもこの遺跡の墓は 中国東北部から朝鮮半島にかけて築かれているものとよく似ているという。さらに、中国・秦時 代(紀元前221~202年)の銅貨や新時代(紀元8~23年)の硬貨も出ている。またその近くの、 明らかに稲作が行われていたとみられる曲り田遺跡では出土した土器のうち朝鮮半島由来の無文土 器はごくわずかで、多くは縄文時代の流れを汲む土器だったという。
 これらの事実は何を物語っているのだろうか。
 縄文的な特徴をとどめた弥生人骨は、西北九州などからも出ている。ところが、遺物との関係 がつかめないことが多い。この新町や神戸の新方は数少ない例である。「朝鮮半島から渡来人が 稲作などをもたらした時、地元がそれらの中からいいものを選び取った。土器が激変しないのは 渡来人がそんなに多くはなかったためで、やがて在来人は彼らと融合しながら変わっていった」 と、中橋さんは見る。「大勢の渡来人が縄文人を追い払い弥生時代になった」という人もいる。 しかし近年、調査・研究が進むにつれて、ひとことではいえない複雑な様相が弥生当初、各地で 繰り広げられたことが浮き彫りになってきた。
 中橋さんが数学者の飯塚勝さんと連名で1998年に『人類学雑誌』(106号)に発表した論 文「北部九州の縄文~弥生移行期に関する人類学的考察」は、その面からも興味深い仮説といえ る。弥生時代の中期、渡来系弥生人と見られる人びとが占める割合は80~90パーセントにの ぼっている。これは中期初めまでに形成された人口構成と見られる。しかし、初期の渡来人はこ れまでの発掘成果から見て、少数だったようだ。そうすれば、200~300年間にこの逆転現 象が一体、なぜ起きたのか。その答えは「渡来系集団の人口増加率が、水田稲作などの進んだ文 化を背景に、土着系集団を大きく上回り、弥生中期には圧倒的になった可能性が大きい」という ものだ。弥生の開花期はこうして始まったようだ。その後、人びとの行き来は次第に頻繁になり、 多くの渡来人が来た、と歴史書にも記されている通りだ。
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