FC2ブログ
2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
312 「日本」とは何か(6)
「稀なる孤島」という虚像(2)
2005年6月25日(土)


 網野さんは高校の教員時代(1960年ころ)を振り返って、そのころ教えていた 「縄文文化」についての「常識」を次のように述べている。
 縄文文化は日本列島が島になってからの「島国文化」であり、その文化圏は北海道から先島諸島を のぞく沖縄までといわれていた。縄文文化の範囲を示すそのころの日本地図には、宗谷海峡、朝鮮 海峡にきれいに線が通っており、ほぼ日本国の領土がふくまれていた。そして縄文文化こそ日本文化 の基底をなす文化という主張もなされていたのである。私もまた、当時はこの見方に立って生徒たち に教えたことは間違いない。

 網野さんはその後、1973年にはじめて対馬を訪れたときの体験から、その「常識」が如何に誤謬 に満ちたものであるかを思い知らされたことを書き留めている。
 はじめて対馬に渡り、北端の比田勝(ひだかつ)に行ったとき、私は 晴れた日には朝鮮半島がよく見えることを知った。そして、自衛隊のレーダー基地の性能の優秀 な望遠鏡で見ると、朝鮮半島の汽車の煙や乾してある洗濯物まで見えるという土地の人の話を聞 いたのである。もちろんこれは誇張であろうが、さきの地図にもみられる通り、対馬と朝鮮半島の 間の朝鮮海峡が、きわめて狭く、近いことをそのとき私ははっきりと認識することができた。後に 聞いたところでは、この海峡は泳ぎが達者なら、たやすく渡れるということであった。
 これに対し、博多から壱岐を経て対馬に渡ったときの船は、天気もよく、さして海も荒れていた とは思われない状況であったにもかかわらず、とくに壱岐を出港してからはピッチング、ローリン グともに著しく、身体をよこたえて手すりにしっかりつかまっていないと、転がってしまうほどの 揺れ方で、酔いどめの薬をのんでどうやら無事、対馬に辿りついた。玄界灘の波は荒い、と私は 痛感したのであるが、この経験を経て、あるときフッと思った。これだけの荒い海を縄文時代の船で 渡れたのなら、なぜ、目の前に見える朝鮮半島に対馬の船が渡らなかったのだろうか。縄文文化の境 が対馬と朝鮮半島の間で引けるなどということが、ありうるのだろうか。朝鮮海峡を文化が渡らな かったことを証明するほうが難かしいのではなかろうか。

 ごく真っ当な考えだと思う。私は三宅島に居住していたことがあるが、悪天候の時の船旅の酷さを 思い出す。穏やかな日和でも日によっては岸壁に打ち寄せる波は激しく高い。黒潮が隔てる、まさに 孤島と言ってよい三宅島にも縄文時代から人が住んでいた。日本海という内海に人の往来がなかった はずがない。
 「日本海」という呼称をつかって思い出したことがある。網野さんは日本海を「日本海」と括弧つ きで用いている。ここで「日本海」という呼称についての網野さんの見解を聞いておこう。
 そしてこう考えてくると、日本列島、「沿海州」、朝鮮半島に囲まれた内海を、「日本海」と呼ぶの は僭称ではないかと思われる。秦がシナになり、地名化したシナとは違い、「日本」は地名ではな く、いまも特定の国家の名前だからであり、もとよりこれは「日本帝国主義」などとは無関係に、17 七世紀から西欧の地図に用いられてきた名称であるとはいえ、多くの国民のとりまくこの海に、特定 の一国家の国名を冠するのは、やはり海の特質になじまない。
 いつかこの内海をとりまく地域のすべての人々の合意の下で、この海にふさわしくすばらしい呼称 のきまる日が、一日も早く来ることを、心から期待したい。すでに韓国の知識人から「青海」という 提案が行われており、これはエメラルド色の美しいこの海の特質をよく表現しえた名称と私は考える が、これをふくめてさまざまな提案が各方面から行われるとよいのではなかろうか。ただ当面、本書 ではこうしたことを前提にしたうえで、便宜、現行の「日本海」を用いることとする。

 さて、網野さんの縄文文化圏についての疑問はその後、渡辺誠という学者さんが実証的に解決している という。
 渡辺氏によると結合釣針、石鋸(いしのこ)といわれる黒曜石を用いた括、 曾畑式(そばたしき)土器などの共通した文化を持つ海民が、縄文時代 前期から朝鮮半島東南岸、対馬、壱岐、北九州にかけての海で活動していた。少し時代が降ると、 その動きは東シナ海に及び、沖縄や山陰・瀬戸内海にもその動きが見られると渡辺氏は指摘して おり、縄文文化がけっして日本列島だけで完結などしていなかったことが、これによってあきらか にされたのである。
 しかもこの列島西部の文化が、列島東部を中心に繁栄した縄文文化とは異質であった点も、重要で あり、こうした列島東部の文化はアジア大陸の北東部と関係があったことも、近年、証明されつつあ ると聞いている。

 真っ当な想像力があれば誰にでも疑えるような間違った「常識」が、どうして日本人の中に深く溶け込 んでしまったのだろうか。その根源は、もちろん、明治以来の日本国家の施策にある。
 (日本列島は孤島という)虚像をあたかも真実であるかのごとく日本人に刷り込んだのは、とくに 明治以降の近代国家であり、さきの島々を領土として国民国家をつくり出すという課題を自らの課題 とした政府主流の選んだ一つの選択肢であった。政府は海が人と人とを結びつける道であることに目 をつぶり、海が人と人とを隔てる国境であることを国民に徹底して教えこみ、海軍力の強化を至上命 令として推進したのである。

 その行く着いた果てが、あの無謀な戦争だった。その悲惨な大破綻が、海という自然のあり方・海の 世界の特質を無視した国家の意志の破綻だったという事実を、はっきりと確認しておく必要があると、網野さん は強調している。大日本帝国が自ら掘った墓穴を改めて確認しておこう。
 アジア・太平洋戦争のさい、「大日本帝国」はこの広大な世界に対し、まさしく陸地支配のために 大軍を派遣し、はるか北から南までの島々を占領した。いまの若い人たちはこれらの島々の地名、と くに東南アジア・オセアニアの地名は観光地でなければ知らない。短大で教えていたとき、太平洋の 地図をみせて日本軍の占領していた範囲を示したところ、学生たちはまったく目をみはり、衝撃をう けたようだった。しかし私のように、戦時中を生きてきたものには、これらの島々、都市の地名は意 外なほどに記憶に残っており、ニューブリテン、ブーゲンビル、ガダルカナルなどの島の地図は、い まも頭に浮かぶほどなのである。このあたりに、現在の老人と若者との間の体験、知識の決定的な落 差があるといわなくてはならない。
 それだけにあらためて強調しておきたいが、こうした日本軍による島々の占領によって、これらの 島々に住む人々が多大な犠牲を強いられるとともに、アメリカ軍との戦闘を通じて、膨大な数の両軍 の兵士たちが命を失ったのである。これは海の世界に、陸の支配の論理を持ちこみ、巨大な帝国をつ くろうとしたこの「大日本帝国」の企図が、いかに現実離れした無謀な試みであったかを、莫大な流 血の犠牲を通して白日の下にあきらかにしたのであり、もとより二度と、こうした愚挙がくり返され てはならない。

 地図3

 「総合世界史図表」(第一学習社)より

 この日本の愚挙が明確に物語っているように、艦船などの海上輸送の手段が大きな発達をとげた近 代になっても、大軍が一定の期間に渡ったり、また渡海・上陸した軍隊に武器・食糧を供給するため に、海がきわめて大きな障害となることは間違いない。もとよりこれに敵対し、渡海を阻止し ようとする側は、こうした海の障害を最大限に利用したのである。それゆえ、アジア・太平洋戦争の さいの南方への兵員・物資の輸送が困難をきわめ、南太平洋の島々では餓死する兵士も少なからず いた。

 秀吉の朝鮮侵略の大敗も、日本を攻撃した大帝国元の大敗も、けだし同じ轍を踏んだ悲惨な 誤りだった。
 海は人と人をつなぐ確かな道であるとともに、人と人を隔てる障壁でもある。歴史上の問題も、 この当たり前と言えば当たり前の事実を見据えた上で、考えなければならない。
スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/571-70e2d606
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック