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594 唯物論哲学 対 観念論哲学(16)
宗教論と言語論(3)
2006年9月1日(金)


 科学的な唯物論にもとづいた言語論に対して観念論にもとづいた言語論では 概念を対象の反映と理解することを拒否している。しかし、人間が概念を持つ という事実は否定しない。では概念が現実の世界の反映として成立することを 認めないならば、一体概念はどこから生まれてくるのか。何か別の説明を必 要となるが、観念論ではどう説明するのだろうか。

 人間が生れつき持っている能力の発動によって頭の中に出現してくるのだと か、宇宙のどこかに存在する概念が何らかの経過をとって人間の頭の中にしの びこんでくるのだとか、このような見解になるほかない。

 例えばカント主義者のカッシラー『言語と神話』より。

「ものを心に描いてみる機能つまり概念的な開化の夜明けというものは、現実 的にはけっして事物そのものからは引き出されるものではないし、またその客 観的内容上の性質を通して理解されうるものでもない。」

 「……知的形式の内容、意味およびその真実性を、そのなかに再現されると 想定される、その本質とは無関係なものによって評価するのでなくて、われわ れはそうした形式そのもののなかに、その真実性と内在的意味とについての評 価と規準とを見出さなければならないのだ。われわれはそうした形式を、なに か別のものの単なる模写と考えるののでなくて、そうした精神的形式のひとつ ひとつのなかに自発的な発生法則を見てとらなければならない。つまり最初は 実在的なものの固定的なカテゴリーのなかに与えられたものの単なる記録とい ったもの以上の、独創的方法と傾向とをもった表現形式をみてとらなければな らない。この観点からみれば、神話と芸術と言語および科学とは、シンボルに なってくる。しかもそれは、暗示および比喩的な表現手段によって、ある与え られた現実に関連するたんなる表象としての意味ではなく、そのひとつひとつ が固有の世界を形成し位置づける精神的なちからという意味においてである。 これら一連の領域において人間の精神は、いかなる『現実』もいかなる有機的 で明確な存在もまさにそれによってのみ存在しているあの内的に決定されてゆ く弁証法のなかに、はっきりと自らを提示しているのだ。したがってこの特殊 の象徴形式は、現実の模倣ではなくて、その器官なのだ。なぜなら、いかなる 現実的なものも知的理解の対象となり、われわれにとってはっきり目に見える ようなものになるのは、まさにそうした形式のちからによる以外にはないから である。どのような現実がこのような形式から分離しており、またその固有の 属性がどんなものであるかという問題は、いまここでは関係のない議論である。 人間の精神にとって、はっきりした形式をもっているもののみが目に見えるも のであるが、実在のあらゆる形式の根元は、その独特のものの観方、ある知的 な公式化と意味の直観に根ざしている。」

 現にカッシラーにしても、人間の精神活動のありかたについてはカントの解 釈に依存しながら、彼のいうところの「象徴形式」それ自体を世界の創造者だ と解釈するところに進んだのであった。

 神話の世界が「精神的なちから」によって形成されたということは、「キン グコング」や「ゴジラ」の活躍する世界が映画脚本家の「精神的なちから」に よって形成されたのと同じように、よろこんで承認しよう。しかしわれわれ は、ここから現実にアフリカに生きている「ゴリラ」や南氷洋で泳いでいる 「クジラ」などを、同じように誰かの「精神的なちから」によって形成された とは考えない。

 神話もルポルタージュも科学も同じように言語で表現されるという、表現形 式の共通性から、これらをすべて同じような性質の世界を扱っているものと解 釈し、「実在のあらゆる形式の根元」を「精神的形式」の中の「発生法則」か らひき出そうとするところに、カッシラーの特徴がある。「どの象徴形式も、 最初から分離し独立して認められるような形式として生じるのではなく、その ひとつひとつが最初が神話という共通の母体から発生しているにちがいないの だ」と、形式上の連続性からすべてをいっしょくたにし、共通した「本質的に その進化に関係を持っている一つの法則」の存在をでっちあげるところに、カ ッシラーの形式主義の特徴がある。


 宗教と哲学を調和させたり、神話と科学をいっしょくたに扱ったりするのは、 観念論に共通した発想です。
 観念論の言語論はカッシラーにみられるような形式主義的な発想ばかりでは ない。神話も科学も人間の頭脳の機能を媒介として成立し、これらは一つの世 界として扱われ役立てられる機能を持っているが、この機能における共通点か ら本質的に共通した存在と見る発想もある。それは機能を本質と混同する機能 主義です。

 さらに、言語それ自体に、「固有の世界を形成し位置づける精神的なちか ら」が存在するものと考えるならば、それは日本でも古代からとなえられて 来た言霊(ことだま)説と本質的に同一の発想である。すなわち言語の物神 化である。

 宗教が神をつくり出すときは、それに命名することを必要とするけれども、 この神の概念を表現する言語もこれまた物神化されてしまって、この言語表 現には神と同じような能力があるかのように解釈されたのである。日本でも、 いまもって、神の名を記した紙切れを持っていれば、身を保護し災厄を防ぐ ことができるという、「おまもりふだ」がつくられている。この「おまもり ふだ」は神聖なもので、粗末に扱ったり汚したりすれば罰を受けるといわ れて来た。

 忌詞(いみことば)といわれるものは、不吉なことを口にするならばその 言語の霊力によってそれが実現するという、言霊説にもとづいて忌避されそ れに代えて用いられた表現である。これもいまもって水商売に従事する人び との一部に信じられていて、「すりばち」と表現すると「する」すなわち損 失をまねくことになるから、反対に「当る」すなわち利益をもたらす意味の 「当りばち」と表現する。結婚の式場では、「帰る」といわないで「お開 き」というのも同じである。しかしながら、一般の人びとはもはや言語の霊 力に対する信仰を持たなくなっていて、忌詞も合理的に扱われている。結婚 式では「帰る」のような不吉なことばを口にすると、関係者たちが不吉なこ とを連想して不愉快になるから、そうした失礼のないようにエチケットとし て口にすることを避けようという発想に変っている。

 神話も芸術も科学も言語も、その創造に共通しているのは何かといえば、 それは人間の能動的な精神活動である。これらの解明にはこの精神活動の解 明が不可欠である。われわれが現実の世界について、知るだけでなく理解し ようと欲するならば、能動的な精神活動をしなければならないし、そこから 神話や芸術や科学や言語を創造する能力も育てられるのであって、生れつき の能力ではない。

 毎朝東から大陽が昇って夕方西に沈んでいくことは、誰でも知っているが、 それが毎日別のものが昇ってくるのかそれとも同じものが昇ってくるのか、 同じものだとするならどのようにして西から東へ移動していくのか、これら を理解するには直接目に見えない太陽系のありかたを頭の中に能動的に描きあ げる必要がある。そして太陽をわれわれに光と熱を与えてくれる神の化身だと か、神が動かしているのだと解釈するなら、そこに神話が誕生してくる。

 雨が降ったり晴天になったりすることは、誰でも知っているが、晴天だったのが 空が曇ってそれから雨が降りだしてくるのはどうしてかを理解するには、や はり直接見ることのできない雨のしずくの成長過程を頭の中に能動的に描き あげる必要がある。雲の上に神が存在して、その活動で雨が降ったり止んだ りするのだと解釈するならば、晴天が続いて農作物が枯れかかっているの で何としても雨が欲しいという場合にも、神に雨を降らせてくれるよう祈 願することになる。

 何かわからない原因で疫病が流行し、多くの人びとが死ぬようなときにも、 なぜそんなことが起るのかその原因を頭の中に能動的に描きあげ、それが悪 魔のしわざだと解釈するならば、その悪魔を追払って疫病の原因を除いてく れるように神に祈祷することにもなろう。

 人間は生活の実践の必要から、現実の世界をひろく深く理解するための能 動的な精神活動を行わなければならないし、そこから宗教的幻想を正しい認識 と思いこむことも起れば、科学的理論をつくりあげることもできるわけであっ て、現実の世界に対する人間の認識の関係、その客観的な矛盾の発展のなかで 能動的な精神活動の所産をとりあげることが求められている。

 それにもかかわらず俗流唯物論の模写説すなわち俗流反映論は、この能動的 な精神活動を正しく説明できなかったことから、カント主義すなわちアプリオ リに能動的な精神活動の所産を解釈する哲学がそれに代ってもてはやされるこ とにもなった。

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 コメント
この記事へのコメント
新幹線男。
勿論唯物論は忘れて欲しいですよ。
当然唯物論を除去して欲しいですよ。
2012/12/14(金) 17:15 | URL | 電車男。 #qg23vkJA[ 編集]
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〔2006.09.02記・同日追記〕 「言語学の用語についての実験的試み」(2006.08.29)(「ソシュール用語を再規定する試み(1)」にタイトルを変更しました) に対してオータムさんから啓発されるコメントを戴いきました
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〔2006.08.29記〕 「言語langue」や「記号signe」(=「シーニュ」)、あるいは「シニフィアンsignifiant」・「シニフィエsignifie」という言葉はいずれも人間の意識の中に存在するものの名称である。しかし原語
2006/09/02(土) 04:53:16 | ことば・その周辺