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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
309 「日本」とは何か(3)
「日本」という呼称について(2)
2005年6月22日(水)


 続いて網野さんは「日本人」という呼称について、あらためて強調しておきたいと、次のよう に述べている。
「日本人」という語は日本国の国制の下にある人間集団をさす言葉であり、 この言葉の意味はそれ以上でも以下でもないということである。「日本」が地名ではなく、 特定の時点で、特定の意味をこめて、特定の人々の定めた国家の名前 ―― 国号である以上、 これは当然のことと私は考える。それゆえ、日本国の成立・出現以前には、日本も日本人も存在 せず、その国制の外にある人々は日本人ではない。「聖徳太子」とのちによばれた 厩戸王子(うまやどのみこ)は「倭人」であり、日本人ではない のであり、日本国成立当初、東北中北部の人々、南九州人は日本人ではない。
 近代に入っても同様である。江戸時代までは日本人でなかったアイヌ・琉球人は、明治政府によっ て強制的に日本人にされ、植民地になってからの台湾では台湾人、朝鮮半島では朝鮮人が、日本人と なることを権力によって強要されたのである。
「民族」の問題をそこに入れると、ことは単純でなくなってくるので、それについては後に若干のベ るが、日本人について、これまで「民族」、人種、あるいは文化の問題などを混入させ、さまざまな 思い入れや意味を加えて議論されてきたために混乱がおこり、日本人自身の自己認識を混濁させてき たと考えられるので、私は単純に、今後とも「日本人」の語は日本国の国制の下に置かれた人々とい う意味で用い続けたいと思う。
 そして、そう考えると「倭人」はけっして「日本人」と同じではないのである。

 それでは「日本」という国名はいつ定められたのか。
 この「日本人の自己認識の出発点ともなるべき最重要な」事柄が「天から降ってきたように、古く からいつのまにかきまっているという曖昧模糊たる認識」にとどまっていて、「現代日本人のほとんど が、自らの国の名前が、いついかなる意味できまったのかを知らないという、世界の諸国民の中でも、 きわめて珍妙な事態が現在もつづいている」と、網野さんは次のようなエピソードを記載している。
 実際、私が15年間、勤務していた神奈川大学短期大学部と、その退職後3年間、講義をした同学経 済学部の学生諸君に、1980年代後半から毎年、講義の冒頭にこの質問を発し、世紀を数字で紙に 書かせるか、手を挙げさせるなどの方法で調査してみたが、紀元前1世紀から20世紀まで、各世紀 に数字が分散し、多数派はない。要するに知らないのである。これは京都大学経済学部の学生約100人 もまったく同じであり、〝キャリア組〟の国家公務員50人の中の2、3名を指名したところ、19世紀、 15世紀、9世紀と正解はなかった。

 こういう不正確な知識、というより無知が「日本の伝統」というたくさんの虚偽を含んだ概念に 呪縛され、偏狭なナショナリズムを流通させていく。
 国会議員などは官僚の〝キャリア組〟と同程度かそれ以下だろう。だからこそ「建国の記念日」な どというウソをまことしやかに制定してしまう。その連中が「誇りある歴史、伝統を持つ日本を次代 に伝える」とのたまう。(超党派の日本会議国会議員懇談会というたいそうな名の無知蒙昧集団の設立 趣意書で「高らかに」うたっている。)私たち支配される者からみれば、搾取と殺戮の歴史じゃないか。 (伝統については留保をつけよう。いずれ詳しく述べる機会があるだろう。)

 では、国号がいつ決まったかというような重大な事柄を日本人のほとんどが知らないという、きわめ て驚くべき事態がなぜいままで放置されてきたのか。網野さんはご自身の反省も込めて次のように述べて いる。
 なぜこのようなことになったのかについては、まことに根の深いものがあるが、その直接的な背景 として、明治以後の政府によって、記紀神話の描く日本の「建国」がそのまま史実として、国家的教 育を通じ、徹底的に国民に刷り込まれたこと、敗戦後、それを批判し、事実に基づく学問的な歴史像 を描くことを目指した戦後歴史学も、天皇については批判的な視点を持っていたが、それと不可分の 関係にある「日本」については、まったく問題にもしなかったことなどをあげなくてはなるまい。
 1966年、政府が「紀元節」を継承する「建国記念の日」を定めたときも、これに反対し、もと よりいまも反対し続けている歴史研究者たちも、「日本国」成立についてはとくにとりあげることな く、一方で当然のように「日本の旧石器時代」「縄文時代の日本」「弥生時代の日本人」などの表現を 用いてきた点にも、戦後歴史学の盲点が端的に現われているといわなくてはならない。かくいう私自 身も20年ほど前まではまったく同様であったので、日本人の歴史認識を混濁させてきた罪を負って いる。

 「日本」という国名がはじめて現われ、日本人が姿を見せるのは、ヤマトの支配者たちの抗争= 「壬申の乱」に勝利した天武朝廷が「倭国」から「日本国」に国名を変えたときである。網野さんは 次のように詳述している。
 それが7世紀末、673年から701年の間のことであり、おそらくは681年、天武朝で編纂が 開始され、天武の死後、持統朝の689年に施行された飛鳥浄御原令で、天皇の称号とともに、日 本という国号が公式に定められたこと、またこの国号が初めて対外的に用いられたのが、702年 に中国大陸に到着したヤマトの使者が、唐の国号を周と改めていた則天武后に対してであったこ とは、多少の異論はあるとしても、現在、大方の古代史研究者の認めるところといってよい。

 国号を「日本」としたとき、「大王」を「天皇」という称号に変えている。「日本」が唐帝国に 認められ東アジア世界に通用したのに対して、「天皇」の方は公的な外交文書では用いることがで きなかったようである。この問題には今は深入りしないが、「天皇」という称号の使用に際して、 「日本」という国号の使用と同じ混乱がはびこっている事は指摘しておきたい。このことについての 網野さんの論述には網野さんご自身の呼称方法も書かれていて参考になる。
 「縄文時代の日本」「弥生時代の日本人」の表現と同様、天皇号の定まる以前についても 「雄略天皇」「継体天皇」「崇峻天皇」「推古天皇」などの「天皇」が、教科書になん のことわりもなく、当然のように登場する。教科書だけではない。歴史学・考古学等の研究者 の研究書、叙述においても、こうした表現が広く見られるのである。これはやはり「天皇」が きわめて古くから存在したという誤りを、日本人に無意識のうちに刷り込む結果になっている といわざるをえない。
 このようなことを気にかけるのは煩しいという意識も、研究者の中にはあると思うが、作家の方 がこの点では研究者よりきびしい場合も見られる。たとえば黒岩重吾氏は『茜に燃ゆ』という作品 をはじめとして、天武以前には天皇の号を作品の中で一切使用していない。これくらいのきびしさを、 歴史研究に携わるものも持つことが必要なのではなかろうか。
 私自身、「日本」についても「天皇」についても、本当にものを書くときに意識しはじめてから、 まださほど年月はたっていないが、近年『日本社会の歴史』(上)(岩波新書、1997年)では、この ことを意識して叙述をしてみた。大王については「オホド王(のちに継体とよばれる)」という表現を し「アメクニオシヒラキヒロニワ(のちに欽明とよばれる)」としてからは以下、1大王については便宜 上、後年の天皇の漢風諡号(しごう)を用いる」と注記し、大王用明、女王推 古のように呼んでみた。また、皇太子、皇后、皇子の語も、天皇の制度の成立以前は使用せず、 太子、大兄(おおえ)大后(おおきさき) 、王子と表記した。
 もとよりこの方式が最良などといえないことはいうまでもなく、さらによく考えられなくてはならな いと思うが、いちおう、これで叙述することはできたのである。人それぞれの表現の仕方、考え方に 違いのあることはいうまでもないが、「日本」と「天皇」がそれ自体、歴史的存在で、始めがあれば 終りもありうることを明確にするために、こうした配慮が日常的に必要ではないか、と私は考えて いる。
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 コメント
この記事へのコメント
日本なのに倭の字を当てた国風諡号
国学院大学所属の研究者・野村朋弘氏による諡号解説を読んだ上で、真説・古代史シリーズを読み直すとさらに興味深いですね。

-諡法解-
http://www.toride.com/~sansui/posthumous-name/mokuji05.html

「日本」という国号が定められた後の国風諡号であるのに、次のニ帝は諡号中で「やまと」に対して「日本」ではなく「倭」の字を当てています。それは何故か?

持統帝:645-690-697-702
 大倭根子天之広野日女尊[おおやまとねこあめのひろのひめ]
文武帝:683-697-707-707
 倭根子豊祖父天皇[やまとねことよおほじのすめらみこと]
2008/09/20(土) 17:36 | URL | ゴンベイ #T4uSdafE[ 編集]
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