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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
306 詩をどうぞ(20)

2005年6月19日(日)



 大古墳  安東次男

   古墳は盛土の労を少くする為に
   小山や丘陵を利用して造られた。

これは、
平地の
とりわけ低いところにある。
歴史のなだらかな傾斜に、
突如として
現れた
抵抗。

長さ四百八十六米
前方部正面三百五米
後円部直径二百四十五米
積土の高さ三十五米、
その周囲を
太古の色をたたえた
三重の堀をめぐらし、
墳丘から外堤に互って
幾重にも埴輪円筒が並んでいる、
その総面積は
四十六万四千坪
外堀の周囲は優に一里
大山陵という、
日本古代の大前方後円墳である。
墳墓の
大きさとその形は、
いつどこの国でも
権力の
象徴であった、
ここ和泉平野から河内大和丘陵にかけては
多くの古墳がある、
それは大小様々に入り乱れて
親兄弟を権力に替えてせめぎ合った、
血みどろの跡を
今に留める一大鳥瞰図。
それをうち率るごとく
それにうち臨むごとく、
この大前方後円墳はある。
ギゼーのピラミッドの三倍。
秦の始皇陵の一・五倍。
これの大古墳は、
塚面積十四万坪
それの墓築きのみでも百八十万人の
延人数を要すると計算された。
百八十万人といえば
千九百四十九年冬の
日本の顕在失業人口と競っている、
一年三百六十五日働きどおしに働くとしても
一日に五千人を要する
大土木工事ではないか。
それを彼らは
遠く金剛山脈や和泉山脈の横穴から

遠く河内平野の竪穴から、
でてきてやっただろう。
火うち石でカチカチと乏しい火を打ち出し
未明より日昏れまでの、
あるいはそれを超えての
雨の日の、
風の日の、
さらに冬の
ぬかるむ霙の日の、
積土と石搬びの三百六十五日は
どのようであったか、
どのような嘆きを持っていたか。
日本書紀に依れば、
工事は
ミカド
帝没年の二十年前より起されたという、
その二十年の
声の無い恨みは
どのようにつづいたか、
とぼくは念う。
石棺は
遠く金剛山脈二上山の凝灰岩
その蓋だけでも優に一千貫をくだらぬ
いま、冬、黄色に枯れた
生駒山から大和丘陵に続く尾根には、
天気のよい日には白鷺がとんでゆくが
ぼくにはいまも老いも若きも男も女も
一千貫の大石を
営営として蟻のように
曳いてゆく千五百年前の
彼ら部民の姿が見える。
金剛山脈の横穴から、
河内平野の竪穴から、
蟻のようにかり出されてくる姿が見える。
寒い寒い夜を幾夜も徹して、
曳いてゆく彼らの
かなしいうたごえが聞える。
下ッ端役人の笞の下で、
彼らの故里のアリランのようにかなしんでいる、
そのうらみつらみのうたごえが聞えてくる。
ぼくらの習った日本歴史は
仁徳天皇といえば民のかまどとおしえ
この大前方後円墳も
部民の切なる願いに依って造られたものとおしえた。
しかしそれによって裏切ることのできぬ嘆きが
ぼくの耳には聞えてくる、
千五百年前の二上山の凝灰岩の
地ずりする音が、
そのなかからとび出して死んだという
一匹の鹿の顔が。


  六十七年冬十月庚辰の朔甲申に、河内の石津原に幸して、
  陵地を定めたまふ。丁酉に、始めて陵を築く。是の日に
  鹿有りて、忽に野の中より起りて、走りて役民の中に入
  りて仆れ死ぬ。時に其の忽に死ぬるをあやしびて、其の
  痍をもとむ。即ち百舌鳥、耳より出でて飛び去りぬ。因
  りて耳の中を視るに、悉く咋ひ割き剥げり。故、其の処
  を号けて、百舌耳原と曰ふは、其れ是の縁なり。
  是歳、吉備中国の川島河のかわまたに、みつち有りて人
  を苦しむ。時にみちゆくひと、其の処に触れて行けば、
  必ず其の毒に被りて、多く死亡ぬ。是に、笠臣の祖縣守、
  人と為りいさおしくして力強し。ふちに臨みて三のおふ
  しひさごを以て水に投れて曰はく、「汝しばしば毒を吐
  きて、みちゆくひとを苦びしむ。われ、汝みつちを殺さ
  む。汝、是のひさごを沈めば、われ避らむ。沈むこと能
  はずは、仍ち汝の身を斬らむ。」といふ。時にみつち、
  鹿に化りて、ひさごを引入る。ひさご沈まず。即ち劒を
  挙げて水に入りてみつちを斬る。更にみつちのともがら
  を求む。乃ち諸のみつちの族、淵の底の岫穴(?)に満
  めり。悉に斬る。河の水血に変りぬ。故、其の水を号け
  て縣守淵と曰ふ。此の時に当りてわさわひやうやくに動
  きて、叛く者一、二始めて起る。是に天皇、夙に起きお
  そく寝ねまして、賦を軽くしをさめものを薄くして、お
  ほみたからをゆるやかにし、徳を布き恵を施して、困窮
  をすくふ。死を弔ひやむものを問ひて、やもをやもめを
  養ひたまふ。是を以て、政令流行れて、天下大きに平な
  り。二十余年ありて事無し。   (日本書紀、巻十一)


鹿はこの時代の奴隷の象徴であった。
その鹿が死んだと、
悪いみずちが鹿に化けてひさごを引入れようとしたが沈まなかったと、
それでみずちを斬ったら反乱が起ったと、
当時の
権力の正統のプロパガンディストであった
日本書紀でさえ書いている。
山陽から山陰へ
北九州から南九州へ
三河駿河を越えて
東は関東上野の辺りまで及んだ、
大和豪族の権力の光る目の下で
おずおずと書いている、
その事実をぼくは大事に思う。
おもうてもみよ。
千九百四十九年冬の、
日本の
顕在失業人口にもほぼひとしい、
延百八十万という人数を。
それの膏血の犠牲において
雨の日も、
風の日も、
営営二十年に互って
築かれた
大古墳と、
そのなかに眠る
ひからびたひとつの木乃伊を。
千五百年の暗黒のなかで
行き場を失ってきた、
千・万の
声々のいかりを。

「現代詩文庫 安東次男詩集」(思潮社)より


 「日本書記」からの引用部分は、テキストファイルでは表示できない 漢字や読めない漢字だらけなので、「日本古典文学大系 日本書記」(岩波書店)のものと 差し替えたうえ、全体の内容をつかむために必要と思われる部分は漢字をひらがなにしまし た。分からないままでは引用の意味がなくなると思いそのようしましたが、安 東さんの創作部分ではないので、お許しいただけるものと判断します。
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