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430 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(81)
白村江の戦(4)
2006年1月31日(火)


 「白村江の戦」後のヤポネシアの状況はどうなったか。古田さんの記述を要約する。
 倭国の総帥・筑紫君薩夜麻は捕われた。権力と共に権威をも失ってしまった。
 上毛野君稚子は騎下のおびただしい将兵と共に消息を絶った。。上毛野君はかつて武蔵の国造の任命をめぐってヤマト王権と任命権を争ったほどの関東の大王だ。(安閑紀、元年閏12月)。
 ヤマト王権に対して上に立つ、あるいは並び立つ存在は、実質上消え去ったのに対して、ヤマト王権の中枢は無傷のまま残った。斉明天皇は九州で病没したが、権力の実質はすでに中大兄皇子(天智)や藤原鎌足の手にあった。
 また、ヤマト王権の勢力の浸透した近隣領域も実勢力を温存したまま終戦を迎えた。例えば、駿河の国造系の豪族とされる廬原君臣の軍一万の到着前に、「白村江の戦」は起こっている。また、備中の国(吉備)の兵二万は、斉明の病没を理由に戦場に赴いていない。それは、当時皇太子であった天智天皇の命によったという。(「備中国風土記」)

 上記のような状況を裏付づける記事が「日本書紀・天智紀」にある。664年(天智3年)、「白村江の敗戦」直後の記事だ。

 春二月、己卯朔、丁亥、天皇、大皇弟(大海人皇子、天武天皇)に命じて、冠位階名を増換し、及び氏上(うぢのかみ)・民部・家部等の事を宣す。
 其の冠は二十六階有り。大織(しき)・小職・大縫(ぶう)・小縫・大紫・小紫・大錦上・大錦中・大錦下・小錦上・小錦中・小錦下・大山上・大山中・大山下・小山上・小山中・小山下・大乙上、大乙中・大乙下・小乙上・小乙中・小乙下・大建(こん)・小建、是を二十六階とす。
 前の花を改めて錦と曰ふ。

 もしもヤマト王権が「白村江の戦」の総帥だとしたら、敗戦直後のこのはしゃぎようは異状だ。これを古田さんは「世にも不思議な物語」と言っている。(日本古代新史)
 「法隆寺の中の九州王朝」から、古田さんの詳述を書き出そう。



 絢爛たるものだ。前の、推古朝の「冠位十二階」が、九州王朝(倭国)の「冠位十二階」の準用とおぼしき姿をもっていたのに比べると、その豪華なる序列の施行は、空前の盛事といっていい。

 ところが何と、これが白村江の惨敗の記事(天智2年9月)の直後なのである。その間、 わずか4カ月。
 おびただしい将兵は異国の白村江に、その空しき屍をさらし、いまだその骨すら朽ちやらぬとき、筑紫の君のような(たとえ彼を天皇家の配下とみなしてみたとしても)、主要人物すら捕囚の身にあえいでいるとき、いわんや多くの将兵は、その生死さえ定かでないとき、もし、近畿天皇家が、この戦の開戦の発動者であったとしたら、この時期に、こんなきらびやかな、まるで祝典行事のようなものが、できるわけがない。

 不幸にも、わたしたちにも、経験がある。昭和20年8月、広島・長崎とつづいた原爆投下のあと、敗戦の15日をむかえた。わたしは18歳を過ぎたばかりのときだった。
 では、その4カ月あと、昭和20年の1月、わたしは何をしていたか。広島の廃墟の中をさまようていた。生きているか、死んでしまったか、行方も知れぬ友人や知人を求めて空しくさまようていた。広島の一角に、生きのびるためだけに朝を迎え、夕を送っていた。とても、にぎにぎしい祝典気分ではなかった。その一点においては、廃墟の中の一つのごみのように生きのびていたわたしと、政府当局のお歴々と、どれほどの差があるものでもなかったであろう。むしろ開戦責任をもつ当局者にとって、その悲痛さは、わたしたち庶民とは、また別段のきびしさがあったことであろう。

 このような経験からかんがえても、近畿天皇家主導の白村江の戦という命題と、天智3年2月の「二十六階」制定記事とは、氷炭相いれぬものだ。だのに、従来の史学は、戦前も戦後も、両命題を共に肯定してきた。
 戦前の史学では、この白村江の敗戦にふれることが少なかった。しかし、戦後の史学では、当然ながら、この大事件は、あるべき位置に復活した。ために、右の矛盾は顕在しているにもかかわらず、それに背を向けたままで、今日に至っている。しかし、もはやその欺罔は万人の目のまえに明らかにされたのである。

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